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LT-38(チェコスロバキア軍名称・LTvz.38、ドイツ軍名称38(t)戦車)は第二次世界大戦前にチェコのČKD社(Českomoravská Kolben Daněk)が開発・製作していた軽戦車の名前。 == 概要 == 1934年末、チェコ軍はシュコダ、ČKD、タトラの三社に対し、いくつかのタイプの戦車開発を依頼した。このうちII-a部門(騎兵用戦車)向けとしてČKDはP-II-a試作戦車を完成させたが、シュコダ社のS-II-a試作戦車(後のLTvz.35)との競争に敗れてしまう。しかしLTvz.35が運用後に変速機のトラブルを発生したこともあり、新たに全く異なるサスペンションを持つ新型戦車TNH-Sが開発され、こちらは1938年にLTvz.38として採用された。 しかし1939年のミュンヘン会談の結果、ナチス・ドイツによりチェコスロバキアが併合され、ČKD社も翌年にBMM社(ボヘミア・モラビア機械製造会社 B.M.M.)に組織改編されてしまった。LTvz.38は併合後に本格生産が開始されたため、チェコ陸軍向けとして発注されていた車輌の全てにあたる150輛がドイツ国防軍向けとして完成させられた。 ドイツ軍向けに納入されたLTvz.38はチェコ製で有ることを示す(t)(ドイツ語でチェコを指す、Tschechischの頭文字)という形式番号を付与され、38(t)戦車(Pz.Kpfw. 38(t))と呼ばれた。この38(t)戦車はチェコ陸軍の主力戦車であった35(t)戦車と共にドイツ軍に編入された。なお開戦前にイギリス軍も購入を検討し、本国で見本車輌の試験を行っているが、同時期にチェコがドイツに併合され断念している。 ドイツ軍は開戦時から多くの38(t)を実戦投入し、ポーランド侵攻では第3軽師団に100輌ほど配備されていた。ノルウェー・デンマークへの侵攻にはほとんど軽戦車が用いられ、38(t)は15輌のみが参加している。フランスや低地諸国に対する西方戦役では、エルヴィン・ロンメル将軍が指揮した第7機甲師団、また第8機甲師団では主力戦車であり、計228輌以上が配備されていた。装甲・火力共に初期のIII号戦車に匹敵するものであったが、狭い砲塔に2人が詰め込まれていた。砲塔旋回装置は重い手動式であり、車長は砲手を兼ねるため指揮に専念できず、3人用砲塔のIII号戦車より操作性や戦闘力では劣っていた。 その後もバルカン半島の戦い、バルバロッサ作戦に投入された。後者の場合、第7、8、12、19、20の各師団に623輌が配備されており、作戦に投入されたドイツ軍戦車全体の18%程を占めていた(なお北アフリカ戦線には1輌も送られていない)。しかしT-34などの強力な新型には抗し得ず、主力の座を退き偵察・連絡任務や後方での警備任務、装甲列車の搭載車輌となり、シャーシは自走砲に転用され戦車としての役目を終えた。 大戦初期に大きな戦力となった38(t)であったが、本車に搭乗し、後にティーガー戦車のエースとなるオットー・カリウスの著書によると、防御力に関しては不満の声が挙がっており、良質なスウェーデン鋼を使用できた初期のドイツ製戦車に比べ、装甲材質が劣っていたといわれる。また装甲板がリベット留めである戦車の共通の欠点として、被弾時リベットが車内を跳ねとび、乗員を死傷させる危険性があった。それでもI号戦車・II号戦車といった訓練用戦車よりは有効な戦力であり、またE / F型、G型と改良を重ねるたびに溶接接合の部分が増え、リベットが減っているのが外見からも確認できる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「LT-38」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Panzer 38(t) 」があります。 スポンサード リンク
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