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リョート・マチダ(Lyoto Machida、男性、1978年5月30日 - )は、ブラジルの総合格闘家。日系ブラジル人二世。バイーア州サルヴァドール出身。ブラック・ハウス所属。松濤館流空手黒帯。ブラジリアン柔術黒帯。元UFC世界ライトヘビー級王者。日本でのリングネームはLYOTO。 伝統派空手のファイトスタイルを貫く異色の総合格闘家。 実兄は2006年に日本空手協会の世界大会で準優勝したシンゾー・マチダである。 == 来歴 == 父親が日本人(戦後ブラジルへ移民した日本人・町田嘉三(日本空手協会七段で松濤館流師範))で母親がユダヤ系ブラジル人(ユダヤ人とブラジル人のハーフ〔町田嘉三が2006年のインタビューラジオにより発言。ニコニコ動画にて視聴可能。NHKドキュメント「20年目の乗船名簿」では、イスラエル系ブラジル人の奥さんと表現された。〕)のハーフ。4人兄弟の三男(1人の養子を入れると5人兄弟だが、大学卒業と同時にその養子は親元に戻る)として生まれる。全員が空手の選手という格闘ファミリーに生まれ育った。幼少時にリョートと次男のシンゾーは小児結核にかかり、1年間ずっと薬を飲むような生活をしていた。 アマゾン川河口の町パラー州ベレンに空手道場を開いた父の下で4歳より稽古し、10代から相撲やブラジリアン柔術も習得、またムエタイ、レスリングの手ほどきも受けていた。空手では2度のブラジル王者、南アメリカ選手権での準優勝などの実績を持つ〔UFC 選手データ 〕(父はインタビューで「LYOTOは4度ブラジル王者になっている」と発言している)ほか、様々な格闘技大会で優勝を重ねていた。 アントニオ猪木の実兄がサンパウロ市に開設した空手道場の師範を父が1年ほど務めた縁から2000年に猪木にスカウトされ、アメリカの新日本プロレス道場で総合格闘技のトレーニングを積む。 2003年5月2日、新日本プロレスが開催した総合格闘技大会「アルティメット・クラッシュ」でプロデビュー。謙吾と対戦し、3-0の判定勝ち。試合後、リングサイドで観戦していたアントニオ猪木から祝福を受けるとともに、拳骨で制裁を受けた。9月13日にはアントニオ猪木が主催した興行であるJungle Fight 1にてステファン・ボナーと対戦し、TKO勝ち。12月31日のINOKI BOM-BA-YE 2003ではそれまで総合格闘技無敗であったリッチ・フランクリンに打撃の連打でKO勝ちを収めた。 2004年3月14日、K-1 BEAST 2004にてマイケル・マクドナルドと総合格闘技ルールで対戦し、前腕チョーク(K-1の公式記録はギロチンチョーク)で一本勝ち。続く5月22日のK-1 ROMANEXではサム・グレコと総合格闘技ルールで対戦し、2-1の判定勝ち。 2005年3月26日、HERO'SでBJ・ペンと対戦し、3-0で判定勝ち。本来、自身より20kg前後も軽いBJとの異質な試合であった。 2006年4月29日、Jungle Fight 6でディミトリー・ヴァンダレイと対戦し、TKO勝ち。 2006年5月26日、グラップリング大会L.A.SUB-X第1回大会でハファエル・ロバト・ジュニアと対戦。1, 2Rで決着が付かなかったため2度延長ラウンドを行ないテイクダウンポイント1点を奪い、ポイント1-0で判定勝ち。 2006年7月22日、ライトヘビー級転向初戦となったWFAでヴァーノン・"タイガー"・ホワイトと対戦、3-0の判定勝ち。ほどなくWFAがUFCに買収されたため、そのままUFCへ移籍することとなる。ダナ・ホワイトは「クイントン・ジャクソンとリョート・マチダを獲得するためだけにWFAを買収した」と発言している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リョート・マチダ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Lyoto Machida 」があります。 スポンサード リンク
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