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Mats ( リダイレクト:松井秀喜 ) : ウィキペディア日本語版
松井秀喜[まつい ひでき]

松井 秀喜(まつい ひでき、1974年6月12日 - )は、日本の元プロ野球選手外野手)。現役引退後はヤンキースGM特別アドバイザーを務める。石川県能美郡根上町(現:能美市)出身。血液型はO型。
1990年代から2000年代の球界を代表する長距離打者で、日本プロ野球時代は読売ジャイアンツメジャーリーグではニューヨーク・ヤンキースなどで活躍した。2012年引退。2013年には国民栄誉賞を受賞。愛称は「ゴジラ」。
== 経歴 ==

=== プロ入り前 ===
1974年6月12日に、瑠璃教会二代目司教である父・昌雄と母・さえ子の二男として生まれる。生まれたときの体重は3,960グラムであった〔日刊スポーツ出版社・身がわりインタビュー 松井秀喜選手 nikkansports.com〕。3歳で自宅近くの保育園に入園。保育園史上最大の園児と言われた。当時の保育園の先生は「8歳ぐらいに見えました」と語っている〔広岡(2002)p17〕。
体格が一際大きかったため、根上町立浜小学校1年生の時に3年生以上で構成される軟式野球チーム「根上少年野球クラブ」に特別に入団させてもらったが、まだ幼すぎて監督の指示などが理解できず、一旦野球をやめてしまった。4年生の時に父から再入団を勧められるが、幼少時のショックは大きく、拒否している〔朝日新聞,「日本一、MVP受賞そして… 巨人・松井、新たな一歩 プロ野球」,2002年11月2日朝刊〕。しかし、野球に打ち込む3歳上の兄に触発され、小学5年生の夏休みに再び軟式野球チームに入り、本格的に野球を始めた。その頃から、既にプロ野球選手を夢見ていた〔。元々は右打ちであったが、あまりにも打球を飛ばす為に野球仲間であった兄とその友人が松井を打てなくする目的で強引に「尊敬する掛布雅之選手(当時は阪神タイガースファンだった)と同じ左」で打つように勧められ、左打ちに変更した。これが運命の左打ち転向であった。小学3年からは町の少年柔道教室にも通い始める。能美郡大会で優勝、石川県大会では3位に入り、国体強化選手にも選ばれていた。松井は「野球よりも注目されていたんです。立ってよし、寝てよし。石川県では結構、強かったんですよ」と自慢している〔阿見俊輔(2004-02-08)松井秀、チームメートに乱闘用柔道伝授 ,SANSPO.COM,2010年9月7日閲覧〕。柔道の他に、わんぱく相撲大会でも活躍していた〔(2010-07-09),かつては“相撲少年”松井も憂い「国技なのに…」 ,Sponichi Annex,2010年9月7日閲覧〕。これらスポーツでの活躍のほか、実家のピアノ演奏する。
中学校への進学にあたって、柔道を続けるか悩むこともあったが、能美市立根上中学校に進学して野球に専念するようになった。根上中学校には野球部があるものの、柔道部がなかった(当初は、野球での部活動の後に柔道場へ通う案も提示されたが、取り組む種目を一本にして集中したいという本人の希望もあったため)ということが野球への道を選択した大きな決め手となった。中学入学時で身長は170cm、体重は95kgに達していた。中学時代は捕手をつとめ、2年夏から投手に転向した〔赤木(2002)p102〕。通算打率は6割を超え、3試合連続本塁打も放ったことがある。3年生になると飛距離は130mにも達し、軟球を割ることもしばしばあった。代わりのボール代だけでも半年間で10万円を超えることになったという〔赤木(2002)p107〕。その一方で、中学1年の時には能美郡相撲大会に出場し、個人戦で優勝。根上中野球部でも「関取」「相撲取り」などのあだ名で呼ばれていた〔。当時の野球部コーチ・高桑充裕〔高桑は現在人事異動で能美市職員となっている。〕は多くの松井の野球の師の中でも特に厳しかったことで知られており、アッパースイングだった松井に王貞治を手本にしたダウンスイングを指導したり、とある試合で敬遠されたために怒りの感情を露わにした当時の松井を試合中でも激しく殴打し諌めたというエピソードがある。また、高桑は星稜高校野球部卒であり、山下智茂の教え子の1人でもある。
中学時代から衛星放送メジャーリーグの試合を熱心に見るようになった。その当時に憧れていた球団は、当時ホセ・カンセコマーク・マグワイアらを擁して黄金期を迎え、後に松井自身が入団することになるオークランド・アスレチックスだった〔松井が初めて買ったメジャーの帽子は憧れのA's , スポーツ報知(2010-12-14), 2010年12月16日閲覧〕。
自由民主党所属の衆議院議員である佐々木紀とは2年1組で同級生 〔みわちゃんねる 突撃永田町!!第92回目のゲストは自民党 佐々木はじめ 衆議院議員 〕。
高校は星稜高校に入学。既に松井の実力を高く評価していた星稜高校監督の山下からの熱烈な勧誘や、中学野球部監督やコーチの高桑らに薦められ、また、根上中学校から星稜に進学した先輩と相談した結果、星稜に進学することに決めた。「野球は大学までやらせてもらえれば」という程度だったが、高校時代に打者として注目を浴びるにつれて、高校を卒業してプロ入りする思いが強まっていったという〔イチローと松井のテレビ対談より〕。
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: 投手として入部したが、本人曰く「投手はあまり好きではなかった」ため、すぐに野手(一塁手)に転向〔イチローとの対談より〕。その後、三塁手に転向する。星稜高校の入学式前から野球部の練習に参加し、他校との練習試合では「4番・三塁手」で出場してヒットを放った。1年生から4番打者を務め(5番は3年生の村松有人だった)「北陸の怪童」「星稜恐怖の1年生4番」として徐々に野球関係者の間に知られていき、本塁打もこの頃から推定飛距離で140mを超すものもあったが、夏の甲子園では初戦の対日大鶴ヶ丘戦で難波投手に3打数0安打で押さえ込まれチームは初戦敗退し、「甲子園は怖いところです」というコメントを残している〔特集 松井秀喜【3】高校1年から4番打者 . 時事ドットコム(2009年11月3日付). 2012年1月14日閲覧〕。しかしながら、対戦した難波投手は打ち取ったものの、第3打席の外野の最も深い場所へ大飛球を飛ばされ、「あの(難しい)球をあそこまで飛ばすのか」と、松井の怪物の片鱗を見たと後にコメントしている。秋は北信越大会で松商学園に敗れ、選抜出場を逃す。この年には、練習試合で愛工大名電高校と対戦しており、当時2年生のイチローと初めて顔を合わせ、一塁ベース上で言葉を交わしている〔イチローと松井のテレビ対談より〕。
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: 高校2年の夏の甲子園の初戦(2回戦)の市立沼津高校戦では、松井の走塁で市沼津をかき回し接戦に勝利。3回戦の竜ヶ崎一高校戦でライトスタンドに甲子園初本塁打を放った〔。準々決勝では松商学園に勝利して北信越大会の借りを返す。夏休みに部内で体力測定を行った際、背筋力250kg、バーベル上げ150kgと、関係者曰く「清原和博以来の数値」を出した。新チームでは監督の山下にキャプテンに指名される。星稜では毎年キャプテンは部員による投票によって選んでいたが、山下が松井の統率力や影響力を高く評価していたため、特例として任命したのだという〔赤木(2002)p138〕。秋の明治神宮大会では優勝した。また、高校生選抜チームに2年生としては三沢興一帝京高)と共に選出され、1年先輩で後にプロ入りした高木大成大野倫萩原誠等にその怪物ぶりを賞賛されている。大野は雑誌のインタビューで「星稜の松井は怪物」と答え、萩原はこの年の高校生打者のドラフトの目玉とされていたが、「自分のホームランなんて松井に比べたら大したものではない」とのコメントを残している。
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: 高校3年春のセンバツでは、阪神甲子園球場ラッキーゾーンが撤去されて本塁打が激減したにもかかわらず、「僕には関係ありません」という言葉通りに〔、開幕試合である初戦の宮古高校戦で2打席連続本塁打、1試合7打点、2試合連続本塁打と、当時の大会記録をマークした。2回戦で堀越高校のエース・山本幸正から難しいカーブを本塁打したのを長嶋茂雄が見ていたのがきっかけで巨人入りしたという話もある〔赤木(2002)p147〕。しかし、準々決勝の天理高校戦では本塁打は出ず、自らのエラーもありチームは敗退した。
: 夏の甲子園は2回戦の明徳義塾高校戦で敗退。この試合で松井が受けた5打席連続敬遠は、高野連が急遽記者会見を開くなど、社会問題にまで発展した。明徳義塾監督の馬淵史郎は試合後、「(星稜の練習を見て)高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた」とコメントしている。
: 高校通算打率は.450、本塁打は60本。高校通算60号は国体尽誠学園戦の第4打席、高校最終打席で記録。ちなみに、「柵越えしたものがホームラン」という松井のこだわりから、ランニングホームランは数に含まれていない。ライナー性の弾道で甲子園球場のバックスクリーンに運ぶ並外れたパワーや、打撃練習であまりにも柵越えを連発するため練習場のライトフェンス後方に特別のネットが取り付けられるなど、桁外れの話題性から「20年に1人の怪物」と言われていた。9月には韓国ソウル で行われた日米韓3国親善高校野球大会に日本代表の一員として出場した〔朝日新聞,「選手18人決まる 日米韓3国親善高校野球大会」,1992年8月26日朝刊〕。松井は米国側からも大きな注目を集めており、同大会に米国代表として出場していたトリー・ハンターは、「まず驚いたのは彼は高校生なのにあり得ないくらい大勢のマスコミを引き連れていたことだ。当時ボクは16歳でマツイは17歳。その高校生を巡ってロックスターを取り囲むような騒ぎになるなんて、一体どんな怪物?だと思っていた。それがマツイだったんだよ」と語っている〔鉄矢多美子,ハンター「18年目の巡り会い」でアゲアゲ ,nikkansports.com,2010/08/11閲覧〕。また、この大会では後にメジャーで活躍する朴贊浩も参加しており、松井との対決では打ちとったが、松井の飛距離には驚かされたという逸話がマガジンでの読み切り漫画『実録スポーツヒーロー列伝 松井秀喜物語』に描かれている。
: ドラフトの目玉となった松井には報道陣が殺到し、11月になると星稜高校の校門前に毎日多くの記者やカメラマンが待機するようになった。「このままドラフト本番を迎えれば、えらい騒ぎになる」との声が地元で上がり始め、ドラフト前には異例の「報道規制」が敷かれた〔朝日新聞,「地元報道陣が「協定」 星稜・松井選手、きょうドラフト」,1992年11月21日朝刊〕。ドラフト前には憧れの球団である阪神に加え、巨人中日ダイエーを希望チームとし、その他の球団から指名された場合は駒澤大学へ進学することをほのめかした〔特集 松井秀喜【4】第二次長嶋政権の中心選手へ . 時事ドットコム(2009年11月3日付)〕。11月21日のドラフト会議では前述の4球団から1位指名を受け、抽選の結果交渉権を獲得した巨人に入団。契約金は1億2000万円。年俸は720万円。背番号は「55」。
: 松井の交渉権を引き当てたのは13シーズンぶりに巨人監督に復帰したばかりの長嶋茂雄。当時の松井は阪神入りを熱望しており、ラジオで交渉権が巨人に決まったことを知ると、記者会見で複雑な表情を浮かべ、「阪神に行きたい、という希望がありましたから。まだ整理もついていないけどその気持ちも次第に薄れていくと思う」と語った〔朝日新聞大阪版,「阪神熱望」の松井は複雑 92年のプロ野球ドラフト 」,1992年11月21日夕刊〕〔“残りものには福”伝説健在!長嶋監督、松井秀喜当てる Sponichi Annex 日めくりプロ野球 〕。その後、長嶋から直接電話を受けて感銘を受け、すんなり巨人入りを決めた。阪神ファンである彼の気を引くために、長嶋は監督就任会見の前に旧知の記者に「星稜高校の松井秀喜選手が大いに注目されていますが、監督はどうお考えですか?」と質問するよう頼んでおき、「ほしいですね、この手で是非育ててみたい逸材です」と答えた。これを自宅のテレビで見た松井父子は興奮し、巨人入りの意思が高まったという〔児玉光雄著 『松井秀喜に学ぶ壁をブチ破る「心の持ち方」』 東邦出版〕。なお、この年のドラフト会議で、当初巨人フロントは松井ではなく伊藤智仁を指名する予定だったが、長嶋が松井の獲得を熱望したため松井指名に切り替えている〔。
: 星稜高校時代、「居眠りしても死角になるから」という理由で窓際の一番前の席が教室での「指定席」となっていたが、山下は「(松井の)授業態度はよかった」と打ち明けている。野球部の練習が大変で、通学に時間もかかるため、授業で全てを覚えようと心掛けていたため、成績も良好であった。野球部の活動以外での欠席は1日もなかった〔。星稜高校の卒業式では、野球部での活躍が評価され、星稜高校を経営する学校法人稲置学園から「総長賞」を贈られた〔朝日新聞,「ジャイアンツの松井選手が高校卒業」,1993年3月8日夕刊〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「松井秀喜」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hideki Matsui 」があります。




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