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『ROMANTIQUE』(ロマンティーク)は、1980年7月21日に発売された大貫妙子通算4作目のスタジオ・アルバム。 == 解説 == 前作『MIGNONNE』リリース後、大貫妙子は約二年間の沈黙期に入る。その理由を大貫は「『ミニヨン』がまわりの期待に反し売り上げがやや不調であったことや、プロデューサーと折り合いをつけることができなかった疲れから、もう音楽を仕事にしていくことはやめようと考えていた。シュガー・ベイブというサブカルチャーからの出発はヒットを生む音楽業界のパワーには馴染めないものだったし、ソロになってからの私も、シンガー・ソング・ライターとして時代の趨勢に身を委ねることができなかった」〔紙ジャケット仕様再発盤『ROMANTIQUE』(2006年12月20日発売 RCA ⁄ BMG JAPAN CD:BVCK-37118)収載「ライナーノーツ」大貫妙子〕という。その間、山下達郎のコンサート・ツアーにバック・コーラスとして参加していたほか、CMソングの制作やコーラスでのスタジオ仕事を行っていた。またその間に、他アーティストへの楽曲提供も行っていたが、それについては「採用されたのは一曲か二曲くらいですが、本当は何十曲と書いているんです。毎日毎日書き直しの連続で、何でこんなことやってるんだろうと思いながらも、聴く人のことを考えて分かりやすいものを書くというのはどういうことだろうということをすごく考えまして、今まで全く人のことを考えてなかった自分に気がついたわけですよね。人にお金を払っていただいてレコードを買ってくれる人がいなかったら仕事はできない。それでもう一回、ちゃんとやってみたいというかね、音楽を仕事としてちゃんとやろう。改めて決心したのであります」〔『ミュージック・ステディ』1983 10月号 No.8(ステディ出版)67~114ページ、1983年10月30日発行〕という。 その沈黙の後、1980年初頭にレコーディングの話が持ち上がる。そのきっかけを大貫は「以前からの知人だった牧村憲一さんという人物が、プロデューサーとして登場するんです。“ヨーロッパっぽい音楽をやってみない? 合ってると思うんだけど”って。私もヌーヴェル・ヴァーグが好きだったし、ちょうど“休みを取った後”だったから。やってもいいかなという気になって」〔『レコード・コレクターズ』JUL., 1997 Vol.16, No.7(ミュージック・マガジン)60~69ページ 特集:大貫妙子“インタヴュー〜強い憧れがリアルな表現を生み出すこともある”(聞き手=真保みゆき)、1997年7月1日発行〕と振り返っている。 サウンドのイメージは「フランソワーズ・アルディ。それと『ラジオのように』のブリジット・フォンテーヌ。」「プロデューサーがアイデアを出してくれた一方で、それを音にしていく上では坂本さんの力が大きかったですね」〔としている。ただ、アルバム全編フランスというわけでもなく、イタリアやロシア的な雰囲気の曲があったりもする。また、歌い方もこのアルバムを境にはっきりと変化したが、「それまでは“ア~ッ”とか結構乱暴に歌っていたのが、『ロマンティーク』には全然合わなかった。それこそフランソワーズ・アルディじゃないけど、フランス語独特の息の抜き方を意識したんです。当時は語るようなヴォーカルに、自分の歌い方のひとつを見つけた感じがしました」〔という。 アルバムには坂本龍一の他に加藤和彦もアレンジャーとして参加しているが、その理由を大貫は「いろんな人と交流を持ちたいし、自分が好きだなと思う人と仕事したいんで、一曲二曲でもやっていただけるなら、なるべく数多くの人と知り合いたいし。そういう人にお願いしてるんです」〔とし、後に加藤は「シュガー・ベイブのレコードやター坊の最初のソロ・アルバムを持っていて知ってたんだけど、あの声質が必要だったの。その時、アルディみたいなのをやれば似合うんじゃないかって言って、テープをあげたのかな。ヨーロッパの感じがしたの、声の質とか、歌い方とか。実際、やってみたら、やっぱりピッタリだった。合っているといっても、やらしたということではなく、本人自身も興味を持って。女のシンガー・ソング・ライターというのはいっぱいいるけど、歌い方や声質だけで何かを表現できちゃうというのは持って生まれたところがあるから、やっぱり、非常に特異な存在だと思う」〔と、後にコメントしている。 アルバム全体振り返って大貫は「やはり25を過ぎると、何か変わるんですよね、心理的にも。女が女になっていくという境目があるとしたら、『ロマンティーク』からだと思います。たぶん。それから今までは割りと言いたい事は言ってしまっていた方なんですが、詞ひとつにしても“あ、これは言わないほうが傷つけないから言わないほうがいい”とか、そういった思いやりっていうのかしら、そういうのがこの頃になってやっとわかりかけてきたんです」〔とし、さらにその後「今、聴いてみると、ややプロデュース過剰な曲もあり、坂本さんと加藤さんの色合いがくっきり別れてしまいましたが、映画のようにロマンティックに、あるいは壮大に音楽で表現しようと試みた結果、そうなってしまったのだと思います。このアルバムをつくることによって、私は自分の声や曲調に対しての手がかりをいくつも発見することが出来たのです。そして、当時このアルバムの評価が予想を超えて支持されたことによって、私は自分の居場所を見つけることができたのです」〔と振り返っている。 ジャケットと歌詞カード表面の写真撮影は鋤田正義が手がけたが、後に鋤田はそのときのエピソードを「撮影では“奇麗に”、“可愛く”撮ろうと努めています。ただ、ジャケットの場合は“かっこよく”というのが加わるんですね。『ロマンティーク』も可愛く奇麗にですが、ちょっと力を抜いているんですね。以前から大貫さんを知っていましたが初対面ですから、お互いに照れるところがあって、なかなか撮影にならないんです。スタジオで撮ることは決めていましたから、代々木公園あたりをぶらぶらと空シャッターに近いスナップを切りながら数時間歩きまわって、慣れてきた頃にスタジオに戻りました。それは、その人の音楽のイメージを大切にしたかったからかもしれないですね」〔『レコード・コレクターズ』2001 Vol.20, No.8(ミュージック・マガジン)126~129ページ “Jacket Design In Japan 第4回 – 鋤田正義”(取材・文=備酒元一郎)、2001年8月1日発行〕と語っていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ROMANTIQUE」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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