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保井 コノ(やすい コノ、1880年2月16日 〔村上小川真理子によると、10月生まれであるが父親が変更の手続きをとった〕- 1971年3月24日)は日本の植物学者。日本女性初の理学博士。学位論文は「日本産石炭の構造の研究」。元お茶の水女子大学教授。 1880年2月16日、愛媛県讃岐国大内郡三本松村〔明治9年8月21日から明治21年12月2日の期間、三本松村は愛媛県に併合されていたことから、明治13年2月16日時点では住所表記では、「愛媛縣讃岐國大内郡三本松村」が正しい。「保井コノ資料目録」お茶の水女子大学ジェンダー研究センター刊の正誤表による。〕(現・香川県東かがわ市三本松)で廻船問屋を営む保井忠治とウメの長女として生まれた。香川県師範学校(現・香川大学)を経て女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)を卒業し、教員となる。 1914年から文部省在外研究員としてシカゴ大学、ハーバード大学(指導者はC.ジェフリー)で学び、帰国後は女子高等師範学校の教授と東京帝国大学理学部の嘱託を兼務した。岩川友太郎らの指導を受け、東京帝大理学部では藤井健次郎と親交があった。1929年から、藤井健次郎を編集主幹とする国際的な細胞学雑誌Cytologia(キトロギア)を創刊につくした。72歳でお茶の水大学を退官するまで、多くの後進を育てた。 == 略歴 == * 1898年 女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)理科入学 * 1902年 岐阜県立高等女学校(現・岐阜県立岐阜高等学校)教諭 * 1905年 女子高等師範学校研究科入学、官費研究生制度の第1回生〔村上〕 * 1906年 最初の論文「鯉のウエーベル氏器官について」を書く * 1907年 女子高等師範学校助教授 * 1911年 日本人女性初の外国雑誌Annals of Botanyに山椒藻の生活史に関する論文投稿 * 1914年 アメリカ留学 シカゴ大学で細胞学を学ぶ。(その後ハーバード大学でも学ぶ)1916年帰国 * 1919年 女子高等師範学校教授 * 1927年 「日本産の亜炭、褐炭、瀝青炭の構造について」の研究で東京帝国大学で日本初の女性理学博士となる * 1949年 お茶の水女子大学発足と同時に教授。その前年、新制大学設置準備委員会委員長を務める。 * 1952年 同退官 * 1955年 紫綬褒章受章 * 1962年 病の床につく * 1965年 勲三等宝冠章受章 * 1971年 没 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「保井コノ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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