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アンソニー・ワイルディング : ミニ英和和英辞書
アンソニー・ワイルディング[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アンソニー・ワイルディング : ウィキペディア日本語版
アンソニー・ワイルディング[ちょうおん]

アンソニー・ワイルディングAnthony Wilding, 1883年10月31日 - 1915年5月9日)は、ニュージーランドクライストチャーチ出身の男子テニス選手。1910年から1913年にかけてウィンブルドン選手権の男子シングルスに4連覇を達成し、黎明期の全豪選手権でも1906年1909年の2度優勝した。しかし、1914年に勃発した第1次世界大戦に徴兵されてフランスで戦死してしまい、戦闘から帰還できなかった悲運の人でもある。愛称の「トニー・ワイルディング」(Tony Wilding)で優勝記録表やテニス文献に記載されることも多い。フルネームは ''Anthony Frederick Wilding'' (アンソニー・フレデリック・ワイルディング)という。
== 来歴 ==
全豪選手権1905年に第1回大会が行われ、初代優勝者はロドニー・ヒース1884年 - 1936年)であった。ワイルディングは1906年の第2回大会で単複優勝を飾り、シングルス決勝ではフランシス・フィッシャーを 6-0, 6-4, 6-4 で圧倒し、ダブルスではロドニー・ヒースとペアを組んだ。1909年の第5回大会では、男子シングルス決勝でアーニー・パーカー1883年 - 1918年)を 6-1, 7-5, 6-2 で破り、3年ぶり2度目の優勝を果たす。
1910年から1913年まで、アンソニー・ワイルディングはウィンブルドン選手権で大会4連覇を達成した。当時のウィンブルドン選手権の競技方式は、現在とは大きく異なっていた。まず「チャレンジ・ラウンド」(Challenge Round, 挑戦者決定戦)が行われ、大会前年優勝者を除くほかの選手たちが1回戦からトーナメントを勝ち抜き、それを制した選手が前年優勝者と決勝を戦う「オールカマーズ・ファイナル」(All-Comers Final)方式で優勝を決定していた。ワイルディングは1910年の「チャレンジ・ラウンド」を制した後、1909年の優勝者アーサー・ゴア1868年 - 1928年)との「オールカマーズ・ファイナル」を 6-4, 7-5, 4-6, 6-2 で制して初優勝を飾った。大会前年優勝者は無条件で決勝に進出できた点が、現在のシステムと大きく異なっているが、ワイルディングは1911年からは「チャレンジ・ラウンド」の勝者を待つ立場になり、こうして1913年まで4連覇を達成する。しかし、1914年のチャレンジ・ラウンドを勝ち上がったオーストラリアノーマン・ブルックス1877年 - 1968年)とオールカマーズ・ファイナルで対戦した時、ワイルディングはブルックスに 4-6, 4-6, 5-7 のストレートで敗れ、大会5連覇はならなかった。チャレンジ・ラウンドからオールカマーズ・ファイナルへの流れで優勝を決定する方式のもとでは、1881年から1886年にかけてウィリアム・レンショー1861年 - 1904年)が「6連覇」の記録を保持しており、ワイルディングはレンショーの記録に2つ届かなかったことになる。ノーマン・ブルックスは1907年のウィンブルドン選手権で、イギリス人以外の選手として最初の優勝者になった人であり、ワイルディングを破った1914年は7年ぶり2度目の優勝であった。ワイルディングとブルックスは、この1914年ウィンブルドンでは男子ダブルスでペアを組んで優勝した。
男子テニス国別対抗戦「デビスカップ」は1900年に第1回大会が創設され、ニュージーランドのワイルディングは1905年からオーストラリアの代表選手としてデ杯に参加した。当時はオーストラリアの国名表記も、1912年まで「オーストラレージア」(Australasia)と書かれていた。ワイルディングは国名表記が「オーストラレージア」から「オーストラリア」と変更される過渡期の時代に、1907年1908年1909年1914年と4度のデ杯優勝に貢献した。
しかし、ワイルディングのテニス経歴がまだ最盛期にあったさなか、1914年の夏に第1次世界大戦が勃発する。ワイルディングもブルックスも第1次世界大戦に徴兵されてイギリス軍に入り、ワイルディングは1915年5月9日フランスのヌーヴ・シャペル(Neuve Chapelle)で戦死した。わずか31歳6ヶ月の短い生涯だった。
アンソニー・ワイルディングは“''On the Court and Off''”(テニスコートの内外で)という題名の著書も残している。この本は、日本テニス界が「硬式テニス」への転向を模索していた1913年に、慶應義塾大学からのイギリス留学生としてウィンブルドン選手権を観戦した小泉信三の手で日本に送られ、当時の貴重な参考文献として用いられた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アンソニー・ワイルディング」の詳細全文を読む




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