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アンドレーア・アルチャート(Andrea Alciato、1492年5月8日 - 1550年1月12日)は、イタリアの法学者、作家。代表作『エンブレマタ(エンブレム集)』は、最初のエンブレム・ブックとして、16世紀から17世紀のヨーロッパで流行したこの形式の本の中で、最もよく知られている作品の一つである。なお、名前は、アンドレーア・アルチャーティ(Andrea Alciati)という表記の方が有名であるが、正式なものではない。また、著書がラテン語であったことからラテン語式のアンドレアス・アルキアトゥス(Andreas Alciatus)、フランスに移住したことからフランス語式のアンドレ・アルシア(André Alciat)といった表記も用いられる。 == 生涯 == アルチャートは、1492年にミラノ近郊のアルツァーノで生まれ、1508年にパヴィア大学に入学し、法学を学んだ。次いでボローニャ大学でも法学を修め、博士号を取得した。 その後、ミラノで弁護士を務め、1518年に法学者としての著作"''Paradoxorum juris civilis libri VI''"、"''Dispunctionum juris civilis libri IV''"、"''Praetermissorum libri duo''" を相次いで刊行した。その年の終わりにアヴィニョン大学からの招請に応じ、同大学教授として法学を講じた。この時期に人文主義者ギヨーム・ビュデと知り合ったという。彼の講義は評価が高かったというが、ペストの影響で大学が閉鎖されたことなどもあり、アヴィニョンを一度離れた。その後ミラノで再び弁護士として活動する傍ら、法学関係の著作をまとめた。 1527年にアヴィニョン大学に戻ったが、ほどなくブールジュに移り、ここでも法学を講じた。1532年末ないし1533年には、ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァに招かれ、高給を保証されてパヴィア大学教授に就任するが、イタリア戦争の影響もあって1537年にはパヴィアを去った。その後、ボローニャ大学教授などを経て、パヴィア大学に戻ったが、すぐにフェッラーラ大学に移籍した。そして、ローマ教皇パウルス3世からは教皇大秘書官に任命されたが、最終的にはパヴィアに戻り、その地で没した。彼の職歴の目まぐるしさは、法学者としての名声が高く引く手あまたであったことも一因だが、他方で同時代人から金銭面の貪欲さを指摘されていた通り、高額の報酬が提示されると、すぐにそちらへ移籍したことにも原因があったとされる。 彼の遺産は、甥であるフランチェスコ・アルチャートが引き継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アンドレーア・アルチャート」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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