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アンリ・ルフェーヴル(Henri Lefebvre、1901年6月16日 - 1991年6月29日)は、フランスのマルクス主義社会学者、知識人、哲学者。 == 経歴 == フランス南部アジェモー(ランド県)生。母親は農家出身でカトリック、父親は中産階級出身でリベルタン(無信仰家)もしくはヴォルテーリヤン(ヴォルテール主義者)である。ルフェーヴルが生まれ育ったピレネー(特にバスク)地方では母方の影響が強い(渡部哲朗『バスクとバスク人』平凡社新書、2004年)。ルフェーヴルがマルクス主義者となる一因は、宗教への反発があった(『総和と余剰』)。 もともとルフェーヴルは技術者を目指したが、第一次大戦後の混乱と自身の病気(肋膜炎)が進学試験準備期に重なったため断念する。エクサン=プロヴァンス大学へ進学。1928年、フランス共産党に加盟。以後、ながらく在野の哲学者・社会学者として活躍する。 1930年からルフェーヴルはリセの哲学教員として教壇に立つが、1940年のドイツ軍によるパリ占領にともない、ナチス・ドイツを批判する『欺かれた意識』(1936年)や『ドイツにおけるファシズムの五年――権力の座についたヒトラー』(1938年)などの著作がオットー・リスト(禁書目録)に登録され、あわせて共産党員だったこともあって、ルフェーヴルはヴィシー政権によって公職すなわち教職から追放される。 1944年から1949年にかけて、かれはトゥルーズのラジオ局ラディオディフュジオン・フランセーズの局長をつとめる。47年、トゥルーズのリセで教職に復帰する。翌48年、フランス国立科学研究センター(CNRS)の研究員となる。農村社会研究をつづけるためだったが、やがて社会状況の変化にともない都市社会に関心を移す。 1950年代、正統派マルクス主義から一線を画する姿勢は、特にスターリン主義批判というかたちで表面化した。これがきっかけとなり、かれはフランス共産党から1958年に除名される。 1962年にストラスブール大学、次いでパリ第十大学ナンテール校で社会学教授になり、最終的にはパリ都市計画研究所教授。日本で最もよく知られているかれの著作のほとんどは、この時期のものである。 1991年、ナヴァラン(ピレネー=アトランティック県)で没。 ルフェーヴルの訃報を受けて、Radical Philosophy誌は次のように報じた。 「フランス・マルクス主義知識人たちのうちで最も多作な人物が、1991年6月28日から29日にかけての夜に、その90歳の誕生日の直後に亡くなった。長い経歴のあいだにかれの仕事は、時代・時期に応じて時に広く受け入れられ、あるいはそうでなくなったりした。だが、哲学だけでなく社会学・地理学といった政治諸科学と文学批評の発展にも同様に影響を与えた」 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アンリ・ルフェーヴル」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Henri Lefebvre 」があります。 スポンサード リンク
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