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イワン・プトスキー(Ivan Putski、本名:Josef Bednarski、1941年1月21日 - )は、ポーランド・クラクフ出身の元プロレスラー。リングネームは、英語圏ではアイヴァン・パッツキーと発音される。 1970年代から1980年代半ばにかけて、アメリカ合衆国のプロレス団体WWF(現・WWE)を主戦場に、ポーリッシュ・パワー(Polish Power)のニックネームで活躍した。 1974年に新日本プロレスに来日した同名選手(リック・フェララ)とは別人〔『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P69(2002年、日本スポーツ出版社)〕。来日経験はないが、その筋骨隆々の肉体から、日本では「岩石男」の異名で呼ばれた。 == 来歴 == 少年期にポーランドより家族と共にアメリカに渡り、移住地のテキサスでプロレスラーとしてデビュー。ポーランドの童話の怪力キャラクターである「イワン・プトスキー」をリングネームに、イゴール・ボディックを模したキャラクターとなって、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたダラスのNWAビッグタイム・レスリング(後のWCCW)にて活動する。1973年にはタイトルを返上したミル・マスカラスに代わり、ホセ・ロザリオのパートナーに起用されてNWAテキサス・タッグ王座を獲得した。1974年にはAWAに参戦、ラリー・ヘニングとコンビを組み、ニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスのAWA世界タッグ王座に挑戦している。 1975年より、ウエイトを絞り込んでニューヨークのWWWFに進出。以降、1970年代全般に渡ってWWWF(WWF)を主戦場に、ポーランド移民の肉体労働者をイメージしたブルーカラーのベビーフェイスとして活躍する。身長180cmにも満たない小兵ながら、その頑強な肉体から繰り出すパワーを武器に、ブラックジャック・マリガン、スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディらスーパーヘビー級の巨漢を相手に一歩も退かない果敢なファイトを展開。悪党王者スーパースター・ビリー・グラハムのWWWF世界ヘビー級王座にも再三挑戦した。1979年10月22日にはティト・サンタナと組んでジョニーとジェリーのバリアント・ブラザーズを破り、WWFタッグ王座を獲得している。 1981年は古巣のテキサスに戻り、サンアントニオのサウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリングにて、4月にワフー・マクダニエルとのコンビでドリー・ファンク・ジュニア&ラリー・レーンからSCW世界タッグ王座を奪取。以降もジノ・ヘルナンデス&タリー・ブランチャードのダイナミック・デュオとタイトルを争った。 1982年末にWWFへ戻り、1983年からはイワン・コロフとの「ポーランド対ソビエト」の抗争を開始。1984年よりスタートしたビンス・マクマホンの全米侵攻サーキットにも中堅ベビーフェイスのポジションで参加した。1985年11月7日に行われた、WWF最初期のPPVイベントである "ザ・レスリング・クラシック" では16人参加のトーナメントに出場、1回戦でランディ・サベージに敗退している。 その後はセミリタイアし、1980年代末に地元テキサスのヒューストンでプロレスリング・スクールを開校。ヘッド・トレーナーのスコット・ケーシーと共に、ブッカー・Tやアーメッド・ジョンソンらを育てた。過去の功績をたたえ、1995年にはWWF殿堂に迎えられている。1997年には息子のスコット・プトスキー(後にWCWでも活動)とのタッグでWWFのリングに復帰、ジェリー・ローラー&ブライアン・クリストファーを相手に親子タッグ抗争を展開した。 引退後はテキサス州オースティンにて学校のセキュリティ・ガードに転身。インディー団体にも時折参戦し、近年では2007年3月24日、ペンシルベニア州のIWC(International Wrestling Cartel)にティト・サンタナとの元WWFタッグ王者チームで出場、グレッグ・バレンタインと若手のLarry Sweeneyのコンビを破っている。 日本には1980年11月、新日本プロレスの第1回MSGタッグ・リーグ戦にアンドレ・ザ・ジャイアントのパートナーとして参加が予定されていた(事前にキャンセルとなり、代打でザ・ハングマンが出場)。来日が待たれた「まだ見ぬ強豪」の一人だったが、日本参戦は一度も実現することはなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イワン・プトスキー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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