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イワン・イワノヴィッチ・マスレニコフ(、1900年9月3日 - 1954年3月16日)は、ソ連の軍人、チェキスト、政治家。上級大将。ソ連邦英雄。戦後は内務次官を務めた。''、1900年9月3日 - 1954年3月16日)は、ソ連の軍人、チェキスト、政治家。上級大将。ソ連邦英雄。戦後は内務次官を務めた。 ==経歴== サラトフ郊外のチャルィクラ村(現オジンスキー地区)出身。 1918年、赤軍に入隊。ロシア内戦時、騎兵群、騎兵連隊、旅団を指揮し、白軍と戦った。1924年8月、全連邦共産党(ボリシェヴィキ)に入党。1928年から国境・国内軍に勤務し、第11ホレズム騎兵連隊を指揮して、パミールとカラクム砂漠のバスマチと戦った。1935年、フルンゼ名称軍事アカデミーを卒業。1936年1月、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内務人民委員部(NKVD)国境軍局戦闘訓練課長補佐。1937年9月、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国国境軍局副局長。1937年12月~1939年2月、白ロシアNKVD国境軍局長。ラヴレンチー・ベリヤがソ連内務人民委員に就任すると、1939年1月~2月に白ロシア第一副内務人民委員を兼任し、エジョフ派の粛清に関与した。1939年2月、軍担当副内務人民委員に任命され、国境軍総局、鉄道施設警備軍、特別重要産業企業警備軍、護送軍、軍事補給部隊、軍事建設部隊を統合した。 独ソ戦勃発と共に前線に立ち、第29軍司令官(1941年7月~)、第39軍司令官(1941年12月~)、北カフカーズ戦線司令官(1943年1月~5月)を歴任した。1943年7月まで副内務人民委員のままであり、督戦隊の創設者の1人でもあった。その後、正式に赤軍に移り、第42軍司令官(1943年12月~1944年3月)、ヴォルガ戦線、南西戦線、第3ウクライナ戦線(1943年5月~12月)、レニングラード戦線(1944年3月~4月)の副司令官を歴任した。大戦末期、第3沿バルト戦線司令官となり、ドイツ軍のクールランド軍集団の撃滅に参加した。1945年6月から極東軍副総司令官となり、関東軍の撃破に参加した。 1945年~1947年、バキン軍管区とザカフカーズ軍管区の司令官。1948年、参謀本部軍事アカデミー附属高等学術課程を修了。1948年6月、ソ連内務省に移り、軍担当内務次官に任命された。マスレニコフは、警備・護送軍、教育施設等を管轄した。スターリンの死とベリヤの権力掌握後も、内務次官のポストを維持した。ベリヤ一派が逮捕された後も、マスレニコフは無事だったが、後に内務省内の捜査が開始されると、摘発を恐れて拳銃自殺した。 第1期、第2期ソ連最高会議代議員。第18回、第19回党大会において、党中央委員候補に選出。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イワン・マスレニコフ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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