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インドネシアの鉄道(インドネシアのてつどう)は、インドネシア共和国における鉄道についての記事である。 == 歴史 == インドネシアにおける鉄道は、当時の宗主国のオランダが設立した「蘭印鉄道会社」の手でジャワ島で1864年に建設を開始したのが始まりとされ、1867年8月にスマラン市内北部のケミジェン - タングン間約25kmで運行を開始した、これは日本の新橋-横浜間の開通よりはやかった。以後南へ順次路線を延ばし1870年ソロまで109kmが開通、1873年ジョクジャカルタまで延長された。この区間は標準軌で敷設を行ったが、建設費が膨大になる事が分かり、以後狭軌に軌間を変更され、蘭印政府の設立の国鉄による1871-1873年に開通したバタビア(現ジャカルタ)-バイテンゾルフ(現ボゴール)は1067mmとなった。この路線は1884年バンドンまで延長され、1884-1888年スラバヤからマディウン-ソロ-ジョグジャカルタへ路線が開通、その後も延長され1894年ジャカルタ~スラバヤ間は蘭印鉄道会社と蘭印国鉄を乗り継ぐ事で鉄道で結ばれた。その後ソロ-ジョグジャカルタ間は3線化され、1929年に1067mmに改軌されジャカルタ-スラバヤ間824kmは直通列車により13時間で結ばれた。 スマトラ島でも1876年蘭印国鉄の手でアチェ州に4kmの軍事目的の鉄道が開通、1891年西スマトラのパダン市と郊外の鉱山を結ぶ鉄道が開通、1917年には軌間750mmのアチェ鉄道(メダン-パンダアチェ)が開通した。 スラウェシ島でも1898‐1901年にかけてマドゥーラ蒸気軌道会社のよりスラバヤからの連絡船の着くカルマ港から西部のバンカラン、東部のムカサンへと結ぶ路線が順次建設された。1922年ウジュンパンタン(現マカッサル)-タカラール間47kmが開通したが1930年に廃線となっている。 また市内軌道としては1869年バタヴィアに馬車軌道が開通、1881年蒸気運転を経て1895年市内路面電車となったが1962年までに全廃された。1889年スラバヤに市内を走る蒸気機関車牽引の軌道が開通し1924年に電化され第2次大戦・独立戦争で被害を出しながらも運行を続けたが1968年1月廃止された。 1941年12月に勃発した太平洋戦争によって、交戦国であるオランダの植民地のインドネシアに侵攻し、支配下におさめた日本軍は一部の路線の整理や、1067mmの狭軌への軌間の統一を行なった〔土木学会誌(2007年、P.42)〕。1945年の独立宣言によって国内の鉄道は全て国有化され、その後のオランダからの植民地解放を目指したインドネシア独立戦争を経ての独立やその後の混乱などによって鉄道は荒廃した。 1953年頃からはアメリカから輸入されたディーゼル機関車などによって無煙化も進んだが、今度は自動車などの進出によって利用客が減少の一途をたどるようになった。このため1960年代から世界銀行や各国の支援によって近代化が進められ、ジャワ北線については日本の支援で1994年に軌道や橋梁の修復が概ね完了した。 1991年に国鉄(PJKA〔Perusahaan Jawatan Kereta Api の略〕)は公社(Perum KA〔Perum Kereta Api の略〕)に移行。さらに、1999年6月に国鉄は政府が100%株式を持つインドネシア鉄道会社(PT. Kereta Api)へ移管された。上下分離方式を採用し、軌道などインフラ部分は政府が、車両及び駅設備のは鉄道会社側が保有および保守整備を行う。現在、バスなど多種交通機関に対する、競争力の強化が求められている。 なお、現在ジャカルタにおいて進められているMRT(Mass Rapid Transit)計画〔レバックブルス - ブロックM - イストラ - ドゥクアタス(西線スディルマン駅連絡) - モナス - ジャカルタコタ間に、地下鉄(郊外は高架鉄道)を建設するもの。これまで鉄道空白地帯であった、KRLジャボタベック中央線(ボゴール線)と西線・セルポン線の間を通ることになる。〕では、PT. Kereta Apiは運営に関与せず、ジャカルタ特別州が鉄道運営会社を設立する予定である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「インドネシアの鉄道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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