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ウンデット・ニーの虐殺(ウンデット・ニーのぎゃくさつ、Wounded Knee Massacre)は、1890年12月28日、サウスダコタ州ウーンデッド・ニーで、ミネコンジュー他のスー族インディアンのバンドに対して、米軍の第7騎兵隊が行った民族浄化。 この虐殺を白人側は「ウーンデッド・ニーの戦い」と呼び、虐殺を実行した第7騎兵隊には議会勲章まで授与されている。しかし、インディアン側ではこれを「ビッグ・フット一行に対する虐殺」と呼んでいて、インディアン戦争の象徴にもなっている。 == 発端 == 19世紀末、インディアンたちは白人によって生活環境を破壊され、絶望のどん底にあった。そんな中、パイユート族のウォヴォカを教祖とするゴースト・ダンスが西部のインディアンたちの間で爆発的に流行した。ゴースト・ダンスとは、「ゴーストダンス(幽霊踊り)を踊ることで、再びインディアンたちの自由な世界とともにバッファローたちが草原に還ってくるという終末的信仰で、スー族のもとで呪術師マト・ワナタケ(キッキング・ベア)によって、「これを信じるものに与えられる『ゴースト・シャツ』を着れば、白人の銃弾を受けても弾が通らず平気になる」という教義が加えられた。 白人側は、この教えによってインディアンたちが反抗的になるとして、徹底的に弾圧した。スー族から無能な臆病者として「ラコタを怖がる若造」と呼ばれ蔑まれていたパインリッジ保留地の監督官ダニエル・F・ロイヤーは、むやみにインディアンを怖がり、ゴースト・ダンスの流行をスー族反乱の予兆と捉え、1890年の11月半ばに「雪の中でインディアンが踊り狂い、凶暴になっているから、今すぐ我々を保護して欲しい」と合衆国政府に電報を打った。この報告を受け、数千人の米軍がスー族の保留地に続々とやって来た。白人による虐殺を恐れ、多くのスー族が西方の岩山地帯マコシカ(バッドランズ)に逃げ込んだ。 さらにスタンディングロック保留地監督官のジェームズ・マクローリンは、スー族の精神的支柱であるシッティング・ブル(タタンカ・イヨタケ)に「ゴーストダンスを煽っている」と濡れ衣を着せ、1890年12月14日、スー族インディアン警官を使って彼を暗殺させた。 この大戦士の死に西部が騒然とするなか、シッティング・ブルを慕っていた同じキャンプのスー族たち(ほとんどが子供や老人、そして非武装の男女だった)は飢えと寒さに耐えかねて、マコシカを下り、川をさかのぼって、南方160キロのグッド川(シャイアン川)そばにいた、ビッグ・フット(シハ・タンカ、酋長の属するミネコンジュー族のビッグフット・バンドの元へ逃れた。 400人近いこのバンドの中で、戦士は100人ほどしかおらず、残りは年寄りや女・子供だった。ビッグフット酋長は肺炎を患っており、トラボイ(地引橇)で運ばれていた。 ミネコンジューは、オグララ・スー族の支族のひとつで、シハ・タンカ酋長の属するバンドは、ゴースト・ダンスを信奉していた。ゴースト・シャツを持つ彼らの元なら、その奇跡の庇護を受けられると考えたのである。上記の一団が合流して、ミネコンジュー族の約400人のビッグ・フットバンドの一団は年金(食料)の補給を受けるために、ミズーリ川近くのベネット砦の保留地管理事務所へ向かっていた。 インディアンの社会では、酋長とは揉め事の矢面に立ち、和平の交渉を行う「調停者」であり、「首長」や「指導者」ではない。しかし白人(スー族の呼ぶところのワシチュー)たちは、「酋長(チーフ)」を「指導者」だと思い込んでいる。「ゴーストダンス」がスー族の中で流行した際には、タタンカ・イヨタケ(シッティング・ブル)をこの宗教の扇動者だと決めつけ、ついには暗殺している。しかし、インディアンの社会は合議制であって、部族民は誰かの指示で行動するような文化にない。酋長はあくまで調停者であって、部族を「率いる」ような立場ではない。 シハ・タンカは、和平交渉者として人望厚かった老酋長で、白人とは友好派で、「賢く分別ある調停者」と呼ばれていた。しかし、白人は終始、この一団はシハ・タンカ(ビッグフット)が「率いている」と思い込んでいる。彼はこのとき、すでに肺炎で余命いくばくもない身体であった。BIA(インディアン管理局)の保留地監督官はゴースト・ダンスを信奉するビッグ・フット一行の動きを警戒し、彼を逮捕すべく、第8騎兵連隊のE・V・サムナー大佐が差し向けられた。 ポーキュパイン崖の近くで、米軍は移動中のこのインディアンの集団に襲いかかり、彼らはただちに降伏した。サムナーの詰問に対し、ビッグ・フットは穏やかに、交戦の意思がないこと、シッティング・ブルのキャンプから逃げた部族員を匿ったのは、「38人の男女が腹を空かし、足を痛め、雪の中裸同然でいたのを発見したからだ。心ある者なら誰でも同じ事をしただろう」と説明した。「調停者」であるビッグフットは、部族員の幸せを図る立場であるから、当然こう答えたのである。 これに対しサムナーは、西方のシャイアン族のキャンプまで同行するよう命令し、彼らはおとなしく従った。サムナーたち白人は、ビッグフットが彼らのバンドの「指導者」だと勘違いしているので、ビッグフット個人に対してあれこれ指示を出しているのである。彼らの、「冬の村」まで来たところで、ビッグ・フットは「もう家に帰るつもりだし、なにも追い立てられる理由はない、これ以上先へ行くつもりはない」、とサムナーに告げた。ところが、その夜に東方から更なる騎兵隊が到着すると聞いて、彼らはおびえ浮き足立ち、マコ・シカ(バッドランズ)へ向けて逃亡する者が出た。 スー族たちインディアンの社会は高度な個人主義であり、支族集団から小さなバンドに至るまで、誰かに統率されているような社会ではない。部族民が米軍に脅えて逃げだしたところで、酋長(調停者)であるビッグフットには何の責任もない。 12月28日、彼らは「逃亡者を追い、逮捕せよ」とのマイルズ将軍の命により、S・M・ホイットサイド少佐の騎兵隊に追跡され捕まった。ビッグ・フットはそれ以上の争いを避けるために白旗を掲げて降伏を告げた。彼らはサムナーに命令されてウーンデッド・ニー河畔まで連行された。ここで野営を張るよう命令され、彼らはティピーを建てた。彼らのキャンプを、リトルビッグホーンの戦いで壊滅した第7騎兵隊の残党を含む、ジェームス・フォーサイス大佐指揮下の、総勢470名、騎兵4個中隊と砲兵1個中隊が包囲した。フォーサイスは肺炎のビッグ・フットのためにストーブを用意させた。夜になると兵士たちは、「暖をとるため」と称してウィスキーの樽を開け、どんちゃん騒ぎを始めた。この現場から24㎞ほど離れたシャイアンクリークそばには、同じスー族の野営地があり、町から続々進軍していく米軍を見て、彼らは不安感を募らせていた。この野営の中には、ブラック・エルクもいた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウンデット・ニーの虐殺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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