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オステンド・マニフェスト : ミニ英和和英辞書
オステンド・マニフェスト[てん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

テン : [てん]
 【名詞】 1. 10 2. ten 3. (P), (n) 10/ten

オステンド・マニフェスト : ウィキペディア日本語版
オステンド・マニフェスト[てん]

オステンド・マニフェスト(、またはオステンド声明)は、1854年に書かれた文書であり、アメリカ合衆国スペインからキューバを購入すべきこと、スペインがこれを拒んだ場合はスペインに宣戦布告すべきことの論拠を展開したものである。キューバの併合はアメリカ合衆国拡張主義者にとって以前からの目標になっており、特に1850年にカリフォルニア州が州に昇格してからその視点は南を向いていた。しかしアメリカは外交的には、キューバがイギリスフランスのような強国の手に渡らない限り、スペイン領のままであることに満足していた。これに対してオステンド・マニフェストは、アメリカ合衆国内での奴隷制度に関する議論、マニフェスト・デスティニーおよびモンロー主義の産物として、外交政策の転換を提案し、国家の安全保障という名目でキューバを手に入れるために武力を使うことを正当化したのである。
第14代アメリカ合衆国大統領フランクリン・ピアースの政権で、南部の拡張主義者達は奴隷州としてのキューバ獲得を要求していた。1854年のカンザス・ネブラスカ法はそうした動きに弾みをつけたが、その進め方についてはピアース内閣には確たる方針がなかった。アメリカ合衆国国務長官ウィリアム・マーシーの提案で、駐スペイン大使ピエール・スーレが駐英大使ジェームズ・ブキャナンおよび駐仏大使ジョン・ヤング・メイソンベルギーオステンドで会談し、この問題を検討した。その結果、エクス・ラ・シヤペルで起草され1854年10月に送付された報告書は、アメリカがキューバを購入することはあらゆる関係者に益のあるものであるという理由を述べ、スペインがこれを拒めばスペインから「力ずくで奪っても正当化される」と宣言していた。大胆なスーレは会合について秘密にしようとせず、ヨーロッパとアメリカ合衆国の双方で、会談が意図せず知られたことは、マーシーにとっては遺憾なことだった。1854年は政治的な不安定さが増している中のことであり、ピアース内閣は報告書の中身が知られた場合の政治的反動を恐れたが、ジャーナリストや政治家などからの圧力は上がり続けた。
この報告書は起草されてから4か月後に、アメリカ合衆国下院の強い要請で全文公開された。「オステンド・マニフェスト」と名付けられたこの文書は、即座に北部州とヨーロッパから非難を浴びた。後に「血を流すカンザス」と呼ばれた出来事の中では北部人の鬨の声として使われ、政治的な副産物はピアース政権にとって大きな挫折となり、事実上南北戦争が終わるまでキューバ併合の可能性は消えた。オステンド・マニフェストが実行されることは無かったが、アメリカ合衆国のその地域に対する関心は1870年代に再度浮上し、最終的にはキューバの独立に繋がっていった。
== 歴史的な背景 ==
キューバはフロリダ州海岸の沖90マイル (140 km) に位置し、幾人かのアメリカ合衆国大統領の政権で併合が議論されていた。第3代トーマス・ジェファーソンや第6代ジョン・クインシー・アダムズは、キューバに対する大きな関心を表明しており、アダムズはジェームズ・モンロー政権下での国務長官時代に、「我が連邦の商業と政治の利益にとって極めて重要な対象となる」と表明していた〔Hershey (1896), p. 75.〕。アダムズは後にキューバとプエルトリコを「北アメリカにとって自然の付属品」と表現し〔Schoultz (1998), p. 48.〕、キューバの併合は「合衆国自体の継続と一体性にとって欠くべからざるもの」とも言っていた〔Schoultz (1998), p. 58.〕。スペイン帝国の力が衰えるに連れて、アメリカ合衆国はジェファーソン時代に始まった非転移政策によってスペインの主権を尊重しており、イギリスやフランスのような強国の手に支配権が渡らない限り、キューバの最終的な吸収は避けられないと考えていた〔May (1973), pp. 17–19.〕。
キューバはアメリカ合衆国南部の民主党にとって特別な重要性があった。その経済と政治の利益は、連邦にさらに別の奴隷州が加入することで最も良くなるはずだった。キューバには奴隷制度が存在し、その農業を基本とする経済と地理的な位置づけによって南部の影響下に入ることが分かっていた〔May (1973), pp. 46–60.〕。キューバが連邦に入れば、その生活が北部の奴隷制度廃止運動家の攻撃に曝されていた南部の奴隷所有者の立場を大きく強化できるはずだった〔Henderson (1939), p. 373.〕。北部の工業を中心とする地域に移民が増加し、人口を元に決められるアメリカ合衆国下院は北部が支配するようになっている中で、南部の政治家達は各州が同数の2議席を保有する上院で、壊れやすい力の平衡を保とうとしていた。奴隷制度の無い西部の州が連邦に加入するに連れて、南部の政治家達はキューバを次の奴隷州として求めるようになっていった〔May (1973), pp. 10–12.〕〔Schoultz (1998), pp. 49–51, 56.〕。もしキューバが単一の州として連邦に加入すれば、ワシントンには2人の上院議員と9人の下院議員を送ることができた.〔キューバの1850年の人口(白人と自由黒人)は 651,223人であり、奴隷人口は 322,519人だった。アメリカ合衆国憲法に規定されていたように奴隷人口に5分の3を掛け、人口に足すと 844,734人となり、1850年国勢調査でのイリノイ州の人口 851,470人とほぼ同数になる。イリノイ州は合衆国議会下院に9人の議員を送り出していた。〕。
民主党の中では、アメリカ合衆国の拡張を継続する議論で、拡張するか否かではなく、如何に早く拡張するかに重きを置いていた〔Schoultz (1998), pp. 40–41.〕。急進派拡張主義者と「若いアメリカ運動」が1848年までに急速に牽引力を得てきており、その年にメキシコユカタン地区を併合するかについての議論には、キューバに関する真剣な検討も含まれていた。モンロー主義の基本に抵触することに強く反対する慎重な拡張主義者と言われたジョン・カルフーンですら、「この島が然るべく国の手中に入らないことは、アメリカ合衆国の安全に欠かせないものである〔」、と同一歩調を採っていた。つまりイギリスのことに言及したと考えられる〔May (1973), p. 17.〕。ジェームズ・ポーク大統領はキューバの暴動を考慮する中で、フィリバスター(軍事支援家)のジョン・L・オサリバンからの懇請を拒み、あの島を獲得するようなことは「友好的な買い物」でなければならないというその信念を述べた〔Brown (1980), pp. 21–28.〕。ポークからの命令で国務長官ジェームズ・ブキャナンは1億ドルの提案を用意したが、「スペイン高官はキューバが如何なる強国のものになるよりも早く、島を大洋に沈めてしまった方が良い」との回答だった〔Bemis (1965), p. 314.〕。ポークの後のザカリー・テイラーミラード・フィルモアホイッグ党政権はこの問題を追及せず、キューバに向かう幾つかの遠征隊を連邦軍に阻止させて、フィルバスターに対してはむしろ厳しい姿勢で臨んだ〔Bemis (1965), pp. 303, 313–314.〕。しかし、フランクリン・ピアースが1853年に大統領に就任すると、キューバ併合に取り組み始めた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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