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オルジェイ・テムル : ウィキペディア日本語版
オルジェイ・テムル

オルジェイ・テムル・ハーン(、 英語:Öljei Temür Khan、1379年〔『蒙古源流』による。〕 - 1412年〔『明史』『明実録』による。『蒙古源流』によると1410年没。〕)は、モンゴル帝国の第23代(北元としては第9代)皇帝(大ハーン)(在位:1408年 - 1412年)〔『蒙古源流』での在位年数は1403年 - 1410年。『蒙古源流』ではオルク・テムルはハーンとされておらず、したがって彼の在位年数にはオルク・テムルのものが含まれている。〕。エルベク・ハーンの子。モンゴル年代記黄金史綱』ではオロイ・テムル漢語史料では完者禿(オルジェイト)、本雅朱里(ベンヤシリ、プニヤシュリー)と表記される。
== 生涯 ==
1398年に父と対立し、またオイラトの難を避けてカーブルにいたティムールのもとに亡命した。ティムールの遠征に随行〔岡田英弘は、ティムールの遠征の意図はオルジェイ・テムルを元朝のハーンに即位させることにあったと指摘する。岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』、64頁〕、ティムール死後も東進を続け、ビシュバリクハーンを称した。オルク・テムルを廃したアスト部のアルクタイの後援を受けて、モンゴル高原に帰国した。即位後はオイラトとモンゴル高原の覇を争い、明に対しても強硬な姿勢をとった。
明の永楽帝はオルジェイ・テムルを慰撫しようとしたが、1409年にオルジェイ・テムルは明の使者・郭驥を殺害して敵対の意思を露にした。このため、永楽帝は配下の猛将・丘福に10万の兵を与えて北元討伐を行なわせた。明軍北上の直前、オルジェイ・テムルはオイラトの最有力者マフムードと戦って大敗し、ヘルレン川に駐屯していた。モンゴル軍は丘福が率いる1000の騎兵に敗れるが、勝利に驕って深入りする丘福を伏兵で破り、その副将4名とともに戦死させた。
この敗戦に永楽帝は激怒し、1410年に50万の軍勢を集めて親征した。永楽帝親征の報を聞いたオルジェイ・テムルは西方への逃亡を考えるがアルクタイは従わず、モンゴルの部衆は東西に分裂した状態になった。永楽帝は北元を討滅すべく西に進軍し、オノン川でオルジェイ・テムルの軍は壊滅し、逃走するときに率いていた護衛はわずか7騎だった。戦後、オルジェイ・テムルと同じく永楽帝に大敗したアルクタイは独自に朝貢を行い、マフムードが明に北元攻撃を志願すると、オルジェイ・テムルは孤立した状態に置かれた。1412年にマフムードによって殺害された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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