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オレイ・アンダーソン(Ole Anderson)のリングネームで知られるアラン・ロゴウスキー(Alan "The Rock" Rogowski、1942年9月22日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー、ブッカー。ミネソタ州ミネアポリス出身のポーランド系アメリカ人。 ヒールのタッグ・プレイヤーとして、ミネソタ・レッキング・クルー(The Minnesota Wrecking Crew)およびフォー・ホースメン(The Four Horsemen)などの伝説的ユニットで活躍。ブッカーとしても、NWAジョージア地区やWCWにおいて手腕を発揮した〔『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P63(2002年、日本スポーツ出版社)〕。 == 来歴 == ミネソタ州立大学でレスリングの選手として活躍後、1967年8月に地元ミネアポリスのAWAにて、ロック・ロゴウスキーのリングネームでデビュー。レスリングの下地を持つ新鋭として、同年10月28日にはネブラスカ州オマハにてボブ・オートンからAWAミッドウエスト・ヘビー級王座を奪取、AWAの新人賞も受賞した〔。AWAではイゴール・ボディックやビル・ワット、ムース・ショーラックらのパートナーとなり、ラリー・ヘニング&ハーリー・レイスやミツ・アラカワ&ドクター・モトが保持していたAWA世界タッグ王座にも挑戦している。 1960年代末よりNWA圏のミッドアトランティック地区に転出し、ヒールに転向してオレイ・アンダーソンと改名。ジン・アンダーソン&ラーズ・アンダーソンのミネソタ・レッキング・クルーに加入する。以降、ラーズ脱退後のジンのパートナーとなり、1970年代全般にかけてミッドアトランティックやジョージア州のGCW(ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング)など、NWAの南部テリトリーを席巻。ミッドアトランティックではリック・フレアー&グレッグ・バレンタインやダスティ・ローデス&ディック・スレーターなどの強豪チームを破り、NWA世界タッグ王座を再三獲得した。 GCWではラーズともコンビを組み、1978年2月27日にミスター・レスリング2号&トニー・アトラス、同年4月28日にサンダーボルト・パターソン&トミー・リッチ、1980年6月8日にイワン・コロフ&アレックス・スミルノフを下し、ジョージア・タッグ王座を3度奪取。シングルでは1977年から1979年にかけて、ミスター・レスリング2号やボブ・アームストロングらとメイコン・ヘビー級王座やTV王座を争った。ロン・フラーが主宰していた同じ南東部地区のサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリングにも参戦し、1980年4月13日にキラー・カール・コックスからサウスイースタン・ヘビー級王座を奪取している。 ジンやラーズとのユニット解消後はGCWを本拠地とし、ワフー・マクダニエル、ジャック・ブリスコ、ダスティ・ローデス、マスクド・スーパースター、スタン・ハンセンらと激闘を展開。ハンセンとはタッグも組んでおり、1982年2月28日にアトランタで行われたミッドアトランティック版NWA世界タッグ王座の争奪トーナメントでは、ハンセンとのチームで優勝を飾っている(このトーナメントには日本からジャンボ鶴田と天龍源一郎の鶴龍コンビも出場しており、両チームは準決勝で対戦した)〔『デラックス・プロレス 1982年5月号』P34-P36(1982年、ベースボール・マガジン社)〕。 GCWではプロモーターのジム・バーネットの懐刀となりブッカーも兼任していたが、1984年4月9日、GCWがビンス・マクマホンのWWFに買収されたために失脚(''「ブラック・サタデー」の項も参照'')。以降は新組織のCWG(チャンピオンシップ・レスリング・フロム・ジョージア)を主宰し、1985年4月にミッドアトランティックのジム・クロケット・プロモーションズがCWGを吸収合併すると同団体に移籍。CWGでのパートナーだったミネソタ・レッキング・クルーの「四男」アーン・アンダーソンとのタッグチームで活動し、1986年からはアーン、リック・フレアー、タリー・ブランチャードらとフォー・ホースメンを結成した。1987年からレックス・ルガーと入れ替わる形で脱退し、ベビーフェイスに転向している。 クロケット・プロがテッド・ターナーに買収されてWCWに移行してからはセミリタイアし、ジョージア時代と同様にブッキング業務を担当。1990年よりヘッド・ブッカーに就任し、1994年5月にはPPV "Slamboree 1994" にてWCW殿堂に迎えられた。しかし、息子のブライアン・ロゴウスキー(ブライアント・アンダーソン)を売り込むためにジム・コルネットのスモーキー・マウンテン・レスリングと接触したことが原因で、同年にエリック・ビショフによってWCWを解雇された。その後はプロレスリング・ビジネスとの関わりを絶っていたが、WCW崩壊後の2003年に自伝 ''"Inside Out"'' を編集者との共著で発表している〔。 ブッカー兼務で多忙だったこともあり、来日回数は通算3回と少なく、初来日は1970年1月の日本プロレス、再来日は1973年10月の国際プロレスで、それぞれジン・アンダーソンとのコンビで参戦。日本プロレスでは岡山県体育館でアントニオ猪木&吉村道明のアジアタッグ王座に、国際プロレスでは鹿島郡神栖町にてラッシャー木村&グレート草津のIWA世界タッグ王座に挑戦した。国際プロレス参戦時には、木村や草津との金網デスマッチも行われている。3度目は1986年3月、旧友スタン・ハンセンの仲介で全日本プロレスに来日し、久々の日本マット登場を果たした。このときはレスラーとしてよりも、当時のアメリカにおけるNWAとWWFのレスリング・ウォーの内情を知る人物として関係者の注目を集めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オレイ・アンダーソン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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