|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 計 : [けい] 1. (n,n-suf) plan ・ 計画 : [けいかく] 1. (n,vs) plan 2. project 3. schedule 4. scheme 5. program 6. programme ・ 画 : [かく, が] 【名詞】 1. stroke
オレンジ計画(オレンジけいかく、オレンジプラン、War Plan Orange)とは、戦間期(1920年代から1930年代)において立案された、起こり得る大日本帝国(日本)との戦争へ対処するためのアメリカ海軍の戦争計画である。カラーコード戦争計画のひとつであり、これ自体は交戦可能性のある全ての国を網羅してそれぞれ色分けされ計画されたもので、日本だけを特別敵視していたわけではない。計画は1919年に非公式に立案され、1924年初頭に陸海軍合同会議(Joint Army and Navy Board)で採用されている。 == 概要 == カラーコード戦争計画は連合国対枢軸国を仮定したレインボー・プランに先行した計画であり、オレンジ計画はアメリカ合衆国が日本のみと戦う場合に基づいて研究され続けていた。 米西戦争によりフィリピン、グアムを獲得したアメリカが西太平洋をそのまま西進して行き着く方向には、日本が日清戦争により朝鮮半島含め大陸へと進出し始めていた。わずか半世紀前にマシュー・ペリー率いる自国の東インド艦隊が訪問して開国させた日本が、富国強兵策を取って中国へ進出してきたことは、米西戦争を終えたアメリカにとって潜在的な警戒すべき問題となっていた。この頃からアメリカは対日本戦争計画の研究作業を開始する。 日露戦争が終結すると中国問題が日米間で重要問題化しだし、両国間の緊張が高まりだす。アメリカは日本を仮想敵国とした戦争計画の策定に本腰を入れ始め、一連のカラーコード戦争計画の一つであるオレンジ計画が誕生する。これら各カラーコード戦争計画は、後のレインボー・プランとは違い基本的に一国対一国の戦争を想定しており、外交関係や集団安全保障に関して考慮されていなかったのだが、オレンジ計画では初期の頃より『日本が先制攻撃により攻勢に出て、消耗戦を経てアメリカが反攻に移り、海上封鎖されて日本は経済破綻して敗北する』という日米戦争のシナリオを描いてシミレーションされ、実際の太平洋戦争もこれに近い経緯を辿っていく。日露戦争の最中、第一次世界大戦といった日本と協調関係にあった時期でも、対日本戦争計画、オレンジ計画は研究され続けていた。 1919年海軍内で立案された頃のオレンジ計画は、まだ大きく分けて3つの案に分れていた。 第1案は、西太平洋におけるフィリピン、グアムなど海外領土を要塞化し、陸軍と海軍の兵力を前方展開する案だった。この案は、要塞化に莫大な費用がかかること、兵力の前方展開により日本との関係が悪化するであろうことから、ワシントン海軍軍縮条約締結に向かっていた日米外交の時流に合わなくなって次第に忘れられていく。 第2案は、緒戦では日本軍の攻勢に対し西太平洋のアメリカ領土が持ちこたえることを想定していた。カリフォルニア基地での太平洋艦隊の編成(平時は、艦船はその乗組員の半分のみ保持している)と、日本軍のパナマ運河への攻撃に対して防衛することが重視され、その間フィリピンや他の領土では物資の供給停止を予期した(これらの地域では、アメリカ本土からの応援は期待できないため独力で持ちこたえるとされた)。次の段階では、兵士動員とカリフォルニアでの艦隊編成を完了させた海軍が、グアムとフィリピンのアメリカ軍を救援するために、西太平洋に出動する。その後、艦隊は日本海軍との決戦のために真北の日本列島近海へ進み、日本艦隊と決戦を行いこれを倒す。最終段階では、制海権を握ったアメリカ艦隊が日本本土を海上封鎖し、中国からの物資に頼る日本の産業や軍事力を圧迫して降伏へ追い込む〔加藤陽子 p216-217〕。この兵站無視、戦術重視の短期決戦案は、オレンジ計画が立案された当時、最有力案であり「フィリピンを見殺しにするな」というアメリカ軍部内の一部から熱烈に支持され続けた。アメリカ側の想定では、日本海軍はアメリカ艦隊の太平洋横断を許すものの、途中で潜水艦、空母機動部隊、駆逐艦や巡洋艦などの補助艦による攻撃でアメリカ艦隊の戦力を削るという対抗策(日本ではこれを『漸減邀撃』と呼んだ)を作成していると考えられた。そのような消耗を与えた後で日本艦隊は日本近海の「決戦海域」へ艦隊を誘い込みアメリカとの戦いを挑むとした。これは、300年以上にわたりそうであったように、戦争は敵対する国家が保有する海上艦隊同士の交戦によって決する〔Mahan, Alfred Thayer. ''The Influence of Seapower on History, 1660–1783''. Boston: Little, Brown, copyright 1918, reprinted 1949.〕としたアルフレッド・セイヤー・マハンの理論(あらゆる主要海軍が第二次世界大戦の前に支持した学説)に合わせている。 しかし日本軍の軍備が大幅に拡張されてきて、アメリカ艦隊が来援するまでアメリカ領土が持ち堪える公算が少なくなるにつれ、この案への支持も少なくなっていった。 第3案は、1909年から大規模な海軍基地建設が始まったハワイを起点に、一旦は日本軍が侵略するであろうミクロネシアの島嶼を、艦隊戦力をもって飛び石伝いに占領しながら反攻していき、グアムとフィリピンを奪回するという兵站重視の長期戦案であった。そしてアメリカ海軍がミクロネシアの地理的重要性に気付き始めたとき、第一次世界大戦においてアメリカと同じ連合国として参戦した日本は、赤道以北のドイツ領ニューギニア各諸島を占領した(その後ヴェルサイユ条約によって正式にこの地域は日本に委任統治されることとなる)。日本が急速に発展膨張して旧ドイツ領ニューギニア地域にまで進出してきたことはアメリカにとって、もはや潜在的な警戒すべき問題ではなく脅威となり始めていた。そこで、創設以来絶えず海軍や陸軍へ解体吸収されそうになっていたアメリカ海兵隊が、アメリカ軍部内における組織としての存在価値を自ら新たに明示するため、1921年海兵隊少佐が日本本土侵攻作戦についての論文「ミクロネシア前進基地作戦行動(Advanced Base Operations in Micronesia)」を7ヶ月で書き上げる。この論文は既に海軍内で非公式に立案されていたオレンジ計画を肉付けし、海兵隊は中部太平洋での飛び石伝いの島嶼攻撃に重要な役割、つまり敵前強行上陸を果たしていくこととなる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オレンジ計画」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|