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川村カ子ト(かわむら カネト 1893年(明治26年)5月 - 1977年(昭和52年)1月6日)は、上川アイヌの長で、旧国鉄の測量技手(ぎて)。国鉄退職後は川村カ子トアイヌ記念館の館長、旭川アイヌ民族史跡保存会長、旭川アイヌ民族工芸会長などを務めた。弟に川村才登、妹・コヨの夫が貝澤藤蔵である。 == 生涯 == 1893年(明治26年)、旭川永山町(現旭川市永山)キンクシベツに生まれる。父は上川アイヌの長、7代目イタキシロマ。母はアベナンカ。小学校卒業後、鉄道人夫として測量隊の手伝いをするなかで測量を学び、やがて測量技手試験に合格し、鉄道員札幌講習所を卒業後、北海道各地の線路工事の測量に携わる。1914年(大正3年)に陸軍入隊、2年後に除隊。 三信鉄道に請われ、難しすぎて引き受け手の無かった天竜峡~三河川合間の測量をアイヌ測量隊をひきいて敢行。現場監督も務めて難工事を完成させた。なお、「アイヌに使われるのはもうごめん」という理由で、土木作業員より殺されかけたこともあった〔旭川アイヌの近・現代史 川村兼一 125p 〕。 : 三河川合~天竜峡間は三信鉄道によって開通した。建設は天竜峡側、三河川合側の双方から進められ、最後の大嵐~小和田間開業でこの区間が全通したのは1937年(昭和12年)である。急峻な山岳地帯を通過するルートで、非常な難工事であったが、アイヌ出身の測量士で山地での測量技術に長けた川村カ子ト等が招聘されて建設にあたり、ようやく完成した。これをもって、豊川鉄道の最初の区間が開業してから40年後現在の飯田線である吉田(現在の豊橋)~辰野間は全通を見たのである。(飯田線の項より) 三信鉄道開通後は、樺太や朝鮮半島での測量にも従事するが、1944年(昭和19年)に引き揚げる。戦後は、視力の衰えで測量の仕事を離れ、川村カ子トアイヌ記念館の館長を務めた。1960年(昭和35年)4月には、三信鉄道における貢献を縁として、信州に招かれている。 1977年(昭和52年)1月、死去。83歳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「川村カ子ト」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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