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カンタベリー (Canterbury) は、イギリス・イングランド南東部ケント州東部に位置するシティ・オブ・カンタベリーの中心エリア。中世から代表的な巡礼地として栄えてきた。 == 歴史 == 青銅器時代や新石器時代の遺跡が発見されており、それらの時代から人が定住していた証拠がある。ケルト人の首都がこの地にあった。ローマ軍による占領後、この町はラテン語でDurovernum Cantiacorumと呼ばれ、要塞が設けられた。 5世紀中ごろにアングロ・サクソン人が、この地域を制圧した。6世紀の終わりごろからグレートブリテン島(ブリタニア)にアングロ・サクソン人の諸王国が建設される。 597年に教皇グレゴリウス1世の命を受けて修道士アウグスティヌス(のちのカンタベリーのアウグスティヌス)を中心して修道士団がブリタニア伝道に赴く。ケント王国(いまのケント州)の王エセルバートは彼らを好意的に迎え入れ、布教に助力したことから、ここがブリタニア布教の拠点となっていく。 601年に修道士アウグスティヌスが初代カンタベリー大司教に就任。以来、カンタベリーはイングランドのキリスト教の中心地になる。 その後ノルマン・コンクエストなど、イングランドの波乱の歴史の中にあっても、カンタベリーは大司教座のある町として権威を高めていく。 1095年にはウィリアム2世と叙任権闘争を起こし大司教が亡命することになった。 1164年カンタベリー大司教トマス・ベケット、裁判権を巡ってヘンリー2世と対立、亡命。 1170年トマス・ベケットは帰国するが、カンタベリー大聖堂内の祭壇で祈っているところをヘンリー2世の騎士に暗殺される。1173年、ローマ教皇アレクサンデル3世はトマス・ベケットを殉教したとして列聖する。以後、聖トマス・ベケット殉教の地として、「カンタベリー詣で」と呼ばれる巡礼地にカンタベリーは位置付けられ、多くの巡礼者が訪れるようになる。 1387年にジェフリー・チョーサーが「カンタベリー物語」を著す。 1534年にヘンリー8世が離婚問題をきっかけに教皇と対立すると、ヘンリー8世は「国王至上法」を出し、カトリックと絶縁。これに対し、カンタベリー大司教はヘンリー8世の離婚を許可する独自の判断を出した。この結果、カンタベリー大司教はローマ教会から事実上分離し独自の路線を歩むことになる。 1559年のエリザベス1世の「統一令」によってカンタベリー大司教座はカンタベリー大主教座と改められ英国国教会の総本山の地位を獲得することになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カンタベリー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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