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カンプス・マルティウス(ラテン語: Campus Martius、イタリア語: Campo Marzio)は、古代ローマにあった2平方キロメートルの広さの公共地域。カムプス・マールティウスとも。中世期にはローマの中心地だった。ローマの第4リオーネ(区)であるカンポ・マルツィオ (Campo Marzio) は、ほぼ古代のカンプス・マルティウスに相当している。なお、ラテン語 Campus Martius は「マルスの野」の意。 == 古代ローマ時代 == 王政ローマの建国以前、カンプス・マルティウスは西をティベリーナ島付近まで蛇行するテヴェレ川に囲まれ、東をクイリナーレの丘、南東をカンピドリオの丘に囲まれた低地だった。 伝説によると、カンプス・マルティウスはかつて王政ローマ最後の王タルクィニウス・スペルブスが所有する小麦畑だったが、共和政ローマに移行する際の革命の時期に焼かれたという。 ローマが生まれてから1世紀の間、この地域はまだセルウィウスの城壁の外だった。馬と羊の放牧地として使われ、ローマ軍がそこで軍事教練を行い、一般市民もローマ軍が残した武器を装備して訓練を行った。このためローマ神話の軍神マールスの祭壇が設けられ、兵士や軍隊と密接に関連付けられた。当初はこの場所で兵士が頻繁に訓練を行っていた。その後、ローマ軍が勝利を収めたときの凱旋式をよく行うようになった。 当時そこは都市の城壁の外だったため、自然に市内に入ることを許されなかった外国の大使と謁見する場となり、外国の宗教儀礼を行うための寺院もそこに建設されていった。 紀元前221年、カンプス・マルティウスの南端のテヴェレ川付近にキルクス・フラミニウスが建設された。戦車競走のための大きな競技場で、ガイウス・フラミニウスの名を冠しており、彼はフラミニウス街道も建設した。 スッラの時代から、共有地だったものを宅地として有力なローマ人に切り売りするようになり、インスラ(集合住宅)やヴィッラが建設されていった。その後ケントゥリア民会の開催場所にもなった。紀元前55年、ポンペイウスがカンプス・マルティウスにポンペイウス劇場を建設した。この地域での記念碑的建築物としてはこれが最初の例である。紀元前52年にクリア・ホスティリアが焼失すると、この劇場を元老院の議場として使ったこともある。紀元前44年にユリウス・カエサルが殺害されたのもここだった。カンプス・マルティウスは選挙会場としても使われた。ユリウス・カエサルは Saepta(選挙用の建物)をここに建設する計画を立てていたが、後を継いで完成させたのはアウグストゥスだった。 ローマ帝国初期のアウグストゥスの時代、カンプス・マルティウスは正式にローマ市内の一部となった。ローマは14の区域に分けられ、カンプス・マルティウスは、東側が第7区域 ''Via Lata''、川に近い部分が第9区域 ''Circus Flaminius'' に分割された。 カンプス・マルティウスにはアウグストゥスが確立した平和を記念して元老院によりアラ・パキス(平和の祭壇)も置かれた。これには、アウグストゥスが帝国に安定をもたらしたことを象徴する意図があった。 マルクス・ウィプサニウス・アグリッパは元々湿地だったところをプールと浴場にし、周囲に緑地と寺院を建設してアグリッパ浴場とした。アグリッパは他にも Porticus Argonautarum や有名なパンテオンも建設している(ただし現存するパンテオンは後にハドリアヌスが再建したものである)。紀元前19年にはこれらの建築物(の浴場や噴水)に水を供給するためのヴィルゴ水道を建設した。 カンプス・マルティウスの北部は人があまり住んでおらず、巨大なアウグストゥス廟があった。カンプス・マルティウスの他の建築物としては、マルケッルス劇場、イシスの神殿(カリグラの時代ごろ)、ネロの建設した浴場や橋などがある。 紀元80年に大火があったが、ドミティアヌスが焼失した建築物を再建し、さらに競技場(現在のナヴォーナ広場の位置にあった)と''Odeion''(小劇場)も建設した。 徐々にカンプス・マルティウスは、寺院、公共建築、サーカス、ポルチコ、浴場、記念碑、円柱、オベリスクなどで占められるようになっていった。しかし、名前にあるマルスを単独で祭った記念碑などは、ローマ帝国後期になっても全く建設されていない。 古い城壁の外にあったカンプス・マルティウスだったが、270年ごろアウレリアヌス城壁で守られるようになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カンプス・マルティウス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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