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カンペルレ (Quimperlé、ブルトン語:Kemperle)は、フランス、ブルターニュ地域圏、フィニステール県のコミューン。 ==地理== カンペルレは県南東部に位置する。ロリアンの北西19.7km、カンペールの東44kmに位置する。歴史的見地からすると、カンペルレはコルヌアイユ地方に属する。 カンペルレとは、ブルトン語で合流することを意味するkemperに由来する。エレ川は町を横断する河川の1つである。実際、町はエレ川とイゾル川の合流地点となっている。この2河川が合流し、ライタ川が生まれる。ライタ川は潮にさらされ、15kmあまり続く長いリアス式海岸で、航行可能である。このためカンペルレは海港でもある。町を横切るもう1つの流れは、ドゥルデュ川(Dourduとはブルトン語で黒い川を意味する)で、直接ライタ川に流れ込んでいる。カンペルレはエレ川を境界として、コルヌアイユ司教区とヴァンヌ司教区とに分かれる地であった。 伝統的に町はヴィル・オート(ville haute、高い町)とヴィル・バス(ville basse、低い町)とに分かれる。かつて貴族と聖職者が多く暮らしたヴィル・バスは、もはやファサードしか残っていないサン・コロンバン教会と、ベネディクト会派のサント・クロワ修道院を中心として発展した。一方でヴィル・オートは、サン・ミシェル教会と教会前広場を中心に発展した、商人の町である。 ヴィル・バスは、エレ川とイゾル川合流地点に挟まれた半島部分を占めている。合流地点直前に2つの河川をつなぐ堀が掘られたため、人工島に変えられている。かつてのサント・クロワ修道院は、町の発祥地となる、町の核であった。13世紀以降、外からの攻撃から修道院を守るため、防御壁が修道院を囲み、聖域とされていたからである。人口増加は市街の拡張を引き起こし、防御壁の外へ町が拡大した。サント・クロワ修道院の勢力と均衡を取るべく、ブルターニュ公ジャン1世は1264年、右岸のヴァンヌ司教区にドミニコ会派修道院を創設した。修道院は、ジャン1世妃ブランシュに敬意を表して、(修道士たちの服装の色に言及しない場合に限って)ブランシュ修道院の別名で呼ばれた。 町は、サント・クロワ修道院院長に完全に依存していた。修道院長は真の封建領主かつ行政の長であり、裁判官であり、地域の警察機関の長であった。修道院長の権限の元、官僚が財務を管理し、弁護士が重い刑罰を含む判決を最終判断なしに決め、voyerが徴税を確保していた。一方で修道院長は、修道院が所有する、教区内全ての教会に対して司教権を持っていた。ブリゾーの邸宅は、洪水時の水の高さを測る目印となった。 ヴィル・バスの大部分は洪水にみまわれていた。ブリゾーとシュルクフの河岸は定期的にライタ川の水が上がった。 ヴィル・オートはサン・ミシェル山とともに標高の高い部分を占めていた。 ブランシュ修道院を中心に、ライタ川左岸、サン・ミシェル山と向かい合う場所に小さな定住地が発展した。これがやがてブルガヌフと呼ばれるようになった。後になって都市部が西へ向かって拡大し、1862年から1863年にかけ鉄道駅が建設された。今日、近接するコミューン、メヤックと北方面は都市化が進んで、スタン・ヴェイユとティ・ランの中心はカンペルレ都市圏の郊外となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カンペルレ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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