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枡席(ますせき、桝席・升席とも)とは、日本の伝統的な観客席。土間や板敷きの間を木組みによって人数人が座れるほどの四角形に仕切り、これを「一枡」として観客に提供したことからこう呼ばれるようになった。同じく日本の伝統的な観客席である桟敷についても本項で扱う。 == 劇場の枡席 == === 歴史と背景 === 枡席は江戸時代の初め頃から歌舞伎や人形浄瑠璃の芝居小屋で普及しはじめた。 芝居小屋の枡席は一般に「土間」(どま)と呼ばれ、料金は最も安く設定されていた。これは初期の芝居小屋には屋根を掛けることが許されておらず、雨が降り始めると土間は水浸しになって芝居見物どころではなくなってしまったからである。したがってこの頃の土間にはまだ仕切りがなかった。 瓦葺の屋根を備えた芝居小屋が初めて建てられたのは享保9年 (1724) のことで、雨天下の上演が可能になった結果、この頃から土間は板敷きとなる。すると座席を恒常的に仕切ることができるようになり、明和のはじめ頃(1760年代後半)から次第に枡席が現れるようになった。当時の芝居小屋の枡席は一般に「七人詰」で、料金は一桝あたり25匁だった〔物価も経済事情も異なる江戸時代と現在の単純な比較はできないが、仮に米価をもとに当時の1両が今日の約10万円ほどの価値だったと推定すると、当時の25匁は今日の約4万5000円、当時の1朱は今日の約6500円ぐらいだったことになる。〕。これを家族や友人などと買い上げて芝居を見物したが、一人が飛び込みで見物する場合には「割土間」といって、一桝の料金のおよそ七等分にあたる1朱を払って「他所様(よそさま)と御相席(ごあいせき)」ということになった〔。 土間の両脇には一段高く中二階造りにした畳敷きの「桟敷」(さじき)があり、さらにその上に場内をコの字に囲むようにして三階造りにした畳敷きの「上桟敷」(かみさじき)があった〔この伝統的な桟敷の伝統は現在の歌舞伎座にも「桟敷席」として残っている。→「歌舞伎座座席表」 〕。料金は現在とは逆で、上へいくほど高くなった〔ただし舞台に正面した三階最奥の上桟敷は、舞台から最も遠く科白も聞きづらかったので、ここだけは料金が特に安く設定されて「向う桟敷」と呼ばれていた。これが「大向う」の語源である。〕。こうして場内が総板張りになったことで、客席の構成にも柔軟性がでてきた。享和2年 (1802) 中村座が改築された際に、桟敷の前方に土間よりも一段高い板敷きの土間が設けられたのを嚆矢とし、以後の芝居小屋では土間にもさまざまな段差をつけるようになった。こうして格差がついた後方の土間のことを「高土間」(たかどま)といい、舞台近くの「平土間」(ひらどま)と区別した。 やがてそれぞれの枡席には座布団が敷かれ、煙草盆(中に水のはいった木箱の灰皿)が置かれるようになった。枡席にお茶屋から出方が弁当や飲物を運んでくるようになったのもこの頃からである。当時の芝居見物は早朝から日没までの一日がかりの娯楽だったので、枡席にもいくらかの「居住性の改善」が求められたのである。 明治になると東京をはじめ各都市に新しい劇場が建てられたが、そのほぼすべてが枡席を採用していた。文明開化を謳ったこの時代にあっても、日本人は座布団の上に「坐る」方が居心地が良かったのである。全席を椅子席にして観客が「腰掛ける」ようにしたのは、演劇改良運動の一環として明治22年 (1889) に落成した歌舞伎座が最初だった。これを境に以後の劇場では専ら椅子席が採用されるようになり、昭和の戦前頃までには、地方の伝統的小劇場を除いて、枡席は日本の劇場からほとんどその姿を消してしまった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「枡席」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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