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キモ・レオポルド(Kimo Leopoldo、1964年1月4日 - )は、アメリカ合衆国の男性総合格闘家、キックボクサー。ドイツ・ミュンヘン出身。カリフォルニア州ロサンゼルス在住。DC7所属。リングネームはキモ。 全身にびっしり施されたタトゥーも特徴のひとつである。「怪人」というニックネームでも知られている。 父親は白人やポリネシアンなど様々な血が混じっていて、母親はドイツ人とフランス人のハーフ〔『格闘技通信』1995年9月8日号、ベースボール・マガジン社〕。 キモ(Kimo)の由来は、イエス・キリストの弟子の一人 ヤコブ(James) をハワイ語にしたものである〔。 == 来歴 == 父親が5年間滞在したドイツで生まれ、3か月後にハワイに移住した〔。 高校でアメリカンフットボールを始め、高校1年時にハワイの高校からシアトルの高校へ転校〔。 ワシントン州立大学中退後もオレンジ・コースト・カレッジでアメリカンフットボール選手として活躍し、プロを目指していたが右膝を手術したことで断念(右膝のタトゥーはその手術痕を隠すように入れられている)〔。ストリートファイトに明け暮れるようになった。この頃、聖書を読み影響を受けた。UFCデビューが決まると、腹に「JESUS」の文字、背中には十字架に磔にされたイエス・キリストのタトゥーを入れた〔竹内規和 『ザ・バーリトゥーダー 極強への挑戦』 フットワーク出版、1998年。〕。 1994年9月9日のUFC 3でデビュー。トーナメント1回戦でそれまで無敗だったホイス・グレイシーを追い込み、敗れはしたが準決勝を棄権するほどにまで追い込んだことで注目を集めた。当時はマネージャーにジョー・サンがついており、彼が主宰する「ジョー・サン・ドー」の選手という触れ込みだった〔実際はジョー・サンとはただの友人同士でキモが刺青を施す際には一緒に入れる約束をしたが、当日になって怖気図いてしまったため、キモだけが刺青を施した。 〕。入場時の十字架を背負うパフォーマンスも話題を呼んだ。当時のキャラクター・神秘的なイメージなどはジョー・サンが考えたものであった〔。 1994年12月10日、K-1初参戦となったK-1 LEGEND 〜乱〜でパトリック・スミスとアルティメット特別ルール(リングに設置された金網マッチ)で対戦。マウントポジションから頭突きの連打で顔面から出血させ、最後はバックマウントパンチでタップを奪った(K-1の公式結果はTKO勝ち)。 1995年3月3日、K-1 GRAND PRIX '95の1回戦で佐竹雅昭と対戦し、左ミドルキックでTKO負け。キックボクシングの練習はほとんど行わず、ウエイトトレーニングのみで試合に臨んだという〔。 ジョー・サンと袂を別ってからは、AMCパンクレイションのマット・ヒュームの元でトレーニングを積み、ジョー・モレイラの元でブラジリアン柔術を学び始めた。 1996年には桜庭和志(当時UWFインターナショナル所属)〔UWFインターナショナル取締役だった鈴木健は高山と桜庭との2試合は、結末が決まっており、シュートマッチ、真剣勝負ではなかったことを後に明かしている(『kamipro』No.130、エンターブレイン。鈴木健インタビュー)〕、クラッシャー・バンバン・ビガロを下し、「プロレスラーの天敵」とまで呼ばれた。 1999年10月11日、新日本プロレスに参戦し、永田裕志と対戦。3分54秒、裸絞めで勝利。 2000年1月4日、新日本プロレス東京ドーム大会で藤田和之と対戦。膝蹴りを急所に受け、4分2秒反則勝ち。 2004年6月19日、UFC 48のメインイベントでケン・シャムロックと対戦し、KO負けを喫した。試合後にステロイドおよび覚醒剤の陽性反応が出たため、ネバダ州アスレチック・コミッションより6か月間の出場停止処分を受けた。 2005年7月17日、PRIDE 武士道 -其の八-で美濃輪育久と対戦し、アキレス腱固めで一本負けを喫した。 2006年7月22日のWFA (World Fighting Alliance) でバス・ルッテンと対戦予定であったが、大会2日前のステロイド検査で陽性反応が出たため、試合への出場は取りやめとなり出場停止処分を受けた(代わりにルーベン・ビシャレアルがルッテンと対戦した)。 2009年2月17日、カリフォルニア州タスティンで、警察官の制服を着用しているところを職務質問され、覚醒剤(メタンフェタミン)所持の現行犯および制服の窃盗容疑により逮捕された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キモ・レオポルド」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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