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キリル・ウラジーミロヴィチ(キリール・ヴラジーミロヴィチ、、1876年10月12日(ユリウス暦9月30日) - 1938年10月12日)は、ロシア帝国の皇族、ロシア大公。ロシア革命が勃発し、それに引き続いて従兄の皇帝ニコライ2世とその弟ミハイル大公が処刑されると、ロシア帝室家長および名目上のロシア皇帝を称した。海軍少将。 == 生涯 == 皇帝アレクサンドル2世の三男ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公とその妻マリー妃との間の次男(第二子)としてツァールスコエ・セローに生まれた。誕生の翌年に兄アレクサンドルが2歳で死去したため、大公一家の事実上の長子として育てられた。母マリーはメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世の娘で、キリルが生まれたときは正教への改宗を拒んでプロテスタント信仰を守っていたが、後に息子たちの帝位継承権を保持するために改宗し、マリヤ・パヴロヴナと名乗った。アレクサンドル2世の男系の孫息子であるキリルには、ロシア大公の称号と「」の敬称が与えられた。 1896年、海軍幼年団(幼年学校)を卒業。その後、一等巡洋艦「」(1897年 - 1898年)、「ゲネラール=アドミラール」(1899年)、艦隊装甲艦「ロスティスラブ」(1900年)、「ペレスヴェート」(1901年 - 1902年)で勤務した。1902年 - 1903年には一等巡洋艦「アドミラル・ナヒモフ」の先任士官を務め、1904年3月には太平洋艦隊司令官本部海軍科長に就任した。 1904年に勃発した日露戦争では海軍将校として従軍し、艦隊装甲艦「」に乗艦した。ところが、「ペトロバヴロフスク」は1904年4月にポルト=アルトゥールで日本軍の機雷に接触して沈没した。キリルは一命を取り留めたものの重度の火傷を負い、戦闘ストレス反応に悩まされ始めたために本国に送還された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キリル・ウラジーミロヴィチ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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