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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ギルフォード・ダドリー(Guildford (Guilford) Dudley, 1535年頃〔Richardson〕 - 1554年2月12日)は、1553年7月10日から同月19日までイングランド女王だったジェーン・グレイの夫である。 ギルフォードは人文主義教育を受け、エドワード6世の死のわずか6週間前にジェーンと盛大な結婚式を挙げた。エドワード6世が死去すると、ギルフォードの父ノーサンバランド公ジョン・ダドリーはジェーンの祖母がヘンリー8世の妹メアリー・テューダーだったことを根拠に彼女を女王に推戴した。ギルフォードは女王の王配として相応の「王」となることを望んだが、イングランドには女王の先例がなく王配を王として扱うことにはジェーン自身も慎重で、結局夫を共同統治者に据えることを見送った。ジェーンの在位は10日に満たない短さに終わり、エドワード6世の姉・メアリー1世があらたに女王として即位すると、夫妻は国家反逆罪でロンドン塔の牢獄に別々に入れられ、共に1553年11月に死刑を宣告された。当初メアリー1世はジェーンとギルフォードを助けるつもりだったが、メアリー女王とスペイン王フェリペ2世との結婚に反対して女王の廃位を主張するワイアットの乱 (Wyatt's rebellion) が起きると、自身の王座を脅かす危険を排除するため夫妻を処刑した。幼い夫婦に対する死刑はあまりに無情だという声が広がった。 == 結婚 == 初代ノーサンバランド公爵ジョン・ダドリーと、英領カレーの総督を務めたサー・エドワード・ギルフォード (Sir Edward Guildford) の娘ジェーン (Jane Dudley) の間の六男、実質的な四男として生まれた〔Loades p. 238〕。ダドリー家は14世紀にダドリー城主となり、後にダドリー男爵 (Baron Dudley) となったサットン家に由来する〔Wilson pp. 1–4〕。父方の祖父エドマンド・ダドリー (Edmund Dudley) はヘンリー7世王の顧問官を務め、ヘンリー7世没後に失脚・処刑された。父方の祖母を通じ、ギルフォードは百年戦争の英雄であるウォリック伯リチャード・ド・ビーチャムやシュルーズベリー伯爵ジョン・タルボットの血を引いていた〔Wilson pp. 1, 3; Adams pp. 312–313〕 。 ダドリー家の13人の子供たちは、後にギルフォードの妻となるレディ・ジェーン・グレイやエリザベス王女(後のエリザベス1世女王)と同じ人文主義の教育を受けた。〔Chapman p. 65〕。父ノーサンバーランド公爵は幼いエドワード6世王の枢密院議長となり、1550年から1553年まで実質的にイングランドを統治した〔Loades pp. 147, 285〕。印刷業者のリチャード・グラフトン (Richard Grafton) は、知り合いだったギルフォードについて「美男子で、芸術を愛し、感じのよいジェントルマン〔Ives p. 275〕」と評している。1552年、ノーサンバーランド公爵はギルフォードをジェーン・グレイの従妹にあたるマーガレット・クリフォード (Margaret Clifford) と結婚させようとしたが、失敗に終わった〔Loades pp. 226, 238〕 。その代わり、ギルフォードは翌1553年の春にその従姉ジェーン・グレイと婚約した〔Ives pp. 185, 36〕。ジェーン・グレイはマーガレット・クリフォードよりもイングランド王位継承順位では上位にあった〔Loades p. 238〕。同年5月21日の聖霊降臨 (Whitsun) の祝日とその翌日、ノーサンバーランド公爵家のロンドンの居館であるダラム・ハウス (Durham House) において、ギルフォードとジェーンの結婚式が行われた。この結婚式ではギルフォードとジェーン、ギルフォードの妹キャサリン (Katherine Dudley) とハンティンドン伯爵家の嗣子ヘンリー (Henry Hastings, 3rd Earl of Huntingdon)、ジェーンの妹キャサリン・グレイ (Lady Catherine Grey) とペンブルック伯爵家の嗣子ヘンリー (Henry Herbert, 2nd Earl of Pembroke) の3組のカップルが同時に結婚した〔Loades p. 239〕。この結婚式では非常に盛大な披露宴が行われ、ジョストや種々のゲーム、仮面劇(マスク)が催された。仮面劇では、男性陣と女性陣により都合2回の劇が上演された。式にはヴェネツィア共和国とフランスの大使、また「大勢の庶民…そして王国で最も重要な地位を占めるお歴々が集った〔Ives p. 185〕」。ギルフォードと一部の出席者は、「コックが料理に使うための葉っぱの種類を間違えたために〔Chapman p. 82〕」、食中毒になった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ギルフォード・ダドリー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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