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ギーズ家(ギュイーズ家、ギュイズ家、 、 )は、近世フランスの貴族の家系。16世紀のユグノー戦争に大きな影響をおよぼした。 == 歴史 == ギーズ家はロレーヌ公国の君主家門ロレーヌ家の分家で、ロレーヌ公ルネ2世の次男であるギーズ公クロード(1496年 - 1550年)を祖とする。クロードはフランソワ1世王に仕えてフランスの公爵位を授けられた。ギーズ家は公爵位のみならず、独立国家の王侯家(ロレーヌ公家)の成員に授けられるプランス・エトランジェ(Prince étranger)の地位を有し、フランス宮廷において非常に高い序列に位置していた。クロードの長女マリー(1515年 - 1560年)はスコットランド王ジェームズ5世の王妃となり、スコットランド女王メアリーの母となった。クロードの長男ギーズ公フランソワは、1558年にイングランド最後の大陸領カレーを奪還したことで軍事的英雄として名声を高めた。クロードの三男シャルルはランス大司教および枢機卿にまで登った。 1558年、王太子フランソワ(後のフランソワ2世王)はスコットランド女王メアリーと結婚した。翌1559年にフランソワ2世が即位すると、ギーズ公フランソワと枢機卿シャルルは王妃の叔父として、その短い治世の間にフランスの国政を主導した。ギーズ家の国政壟断は、ユグノーとブルボン家によるギーズ家排除を狙ったを引き起こした。1560年にはカトリック勢力がユグノー勢力に勝利し、ギーズ家はアンボワーズ陰謀事件の参加者に苛烈な処罰を加えた。フランソワ2世の死後、ギーズ家一門はこぞって摂政王太后カトリーヌ・ド・メディシスの宗教寛容政策に反対し、このことがユグノー戦争の勃発につながった。 ギーズ公フランソワは1562年のドルーの戦いでユグノーを撃破するのに貢献したが、翌1563年に暗殺された。ギーズ公爵位を継いだ長男アンリ(1550年 - 1588年)はサン・バルテルミの虐殺で重要な役割を演じ、またカトリック同盟を組織した。1584年に王位の推定相続人だった王弟アンジュー公フランソワが死去すると、ユグノー勢力の首領ナバラ王アンリ(後のフランス王アンリ4世)が次の推定相続人となった。この事態はアンリ3世王、ナバラ王アンリおよびギーズ公アンリの間でフランスの支配権をめぐる新たな内戦、いわゆるを誘発した。ギーズ公アンリはプロテスタントのナバラ王をフランス王位から排除すべく内戦を開始し、強力なカトリック同盟の指導者として、アンリ3世をも凌駕する権力を持つようになっていた。ギーズ公アンリは非常に野心的な性格で、1588年には国王に対する反乱を扇動し、パリ市の支配権を掌握して事実上の「パリの王」となった。 アンリ3世はギーズ家と見せかけの和解を成立させた後、1558年12月にギーズ公アンリとその弟の枢機卿ルイ(1555年 - 1588年)をブロワ城におびき寄せて暗殺した。カトリック同盟の指導者の地位は、ギーズ公アンリの次弟マイエンヌ公シャルル(1554年 - 1611年)に移った。カトリック同盟はマイエンヌ公の甥のギーズ公シャルル(1571年 - 1640年)を、スペイン王フェリペ2世の娘イサベル・クララ・エウヘニア(フランス王アンリ2世の孫娘)と結婚させて、フランス王に擁立する計画を立てた。しかしその後、カトリック同盟は敗退し、マイエンヌ公はアンリ4世王と和平を結んだ。カトリック同盟は1596年1月の講和締結によって解消した。 これ以後、ギーズ一族のフランス国政における地位は凋落の一途を辿り、嫡系にあたるギーズ公爵家は1688年に断絶した。ギーズ公爵家の莫大な資産と数多の称号の相続は、多くの近親者たちの間で争われた。ギーズ公爵位はブルボン=コンデ家に渡った後、オルレアン家が相続した。ギーズ家の諸分家のうち、エルブフ公爵家の系統のみが1688年以後もフランス貴族として続いたが、1825年には男系が絶えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ギーズ家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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