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寝台車(しんだいしゃ)は鉄道車両のうち、寝台設備を有するものを指す。 車両の構造は、開放式寝台と個室寝台(または区分室式寝台)とに大別される。 日本の場合、現在のJR各社においては、料金区分上A寝台・B寝台の2種に大別される。このうち、A寝台については座席車のグリーン車に相当する優等車であり、B寝台は座席車の普通車に相当する一般車である。形式記号は「寝床」を示す「ネ」をつけ、A寝台は「ロネ」・B寝台は「ハネ」となる。 == 歴史 == === 世界 === 寝台車の歴史は1830年代のアメリカにさかのぼることができる。1838年にアメリカのペンシルベニア州周辺の複数の鉄道会社が寝台車の運行を始めたのがその発端である。寝台車を必要とするような長距離路線は当時、アメリカをおいて他には存在せず、1858年にはウッドラフ商会という寝台車運行を専門に行う会社が登場し、本格的な寝台車事業を行うに至っている。 アメリカの最盛期の寝台車運行、および、イギリスにおける最初の寝台車の営業運行はプルマン社(Pullman Company)によって実現された。1859年に小規模な寝台車会社としてスタートしたプルマン社は1865年に製作したパイオニア号で名声を収め事業を拡張、1874年にはイギリス初の寝台車の営業運行を行っている。1899年には最大手の競合会社、ワグナーパレスカー社を買収し、アメリカでの独占的地位を形成するに至った。 一方、大陸ヨーロッパにおける寝台車運行は、ベルギー人の実業家、ジョルジュ・ナゲルマケールスにより1872年に設立された国際寝台車会社(ワゴン・リー社)によって始められた、彼の事業はアメリカの大富豪ウィリアム・ダルトン・マンとの提携を経て発展し、1883年には有名な「オリエント急行」の運行が始められている。プルマン社の寝台車が車端に区分室を備えつつも、開放式の寝台車中心であったのに対し、ワゴン・リー社の寝台車は全て区分室で、これがヨーロッパで広く受け入れられる要因の一つとなった。プルマン社も大陸進出を画策するも、ワゴン・リー社との参入競争に敗れ、僅かにイタリアにおける寝台車運行の契約を結ぶに留まった。ウィリアム・ダルトン・マンは1875年には株式をナヘルマッカーズに売却、アメリカに帰国し当時としては画期的なエアコン付き区分室寝台車の運行を行う寝台車会社を設立するが、プルマンとの競争に敗れる。彼の寝台車は「20世紀特急」、「カリフォルニア特急」などの豪華列車に連結される全区分室寝台車の原型となったが、アメリカにおける一般の寝台車の区分室化は1930年代以降にずれ込んだ。 プルマン社による寝台車運行は、後にカナダやメキシコに展開した。全盛期である1910年代から1920年代にかけては約10,000両の寝台車を保有し、少なくとも1日に10万人分の寝台を提供、主要幹線では「all-Pullman」と呼ばれる全車プルマン寝台車の寝台専用列車の運行が行われていた。他方、ワゴン・リー社はユーラシア大陸各地で寝台車を運行し、全盛期には4,000両の寝台車を保有していたと言われている。しかし、両者は飛行機の登場と冷戦体制により事業規模を縮小、現在では寝台車事業から撤退している。ヨーロッパでは、主要幹線の夜行列車にはワゴン・リー社の様式を引き継いだ寝台車が簡易寝台車「クシェット」とともに連結されているが、アメリカでは旅客列車自体の本数が激減、現在も定期旅客列車で運用されている寝台車は150両ほどにすぎない。 なお、その他各国の鉄道が両社の寝台車に倣った寝台車運行を行い、独自の発展を遂げつつ現代に至っている。 世界の鉄道においては、日本の583系電車のような、動力分散方式の寝台車はほとんど例がなく、わずかに、アメリカのインターアーバン、西ドイツのVT10.5形気動車、オーストラリアのXPT、中国のCRH2型電車のような事例がある程度で、大多数は客車として、機関車に牽引される形態となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「寝台車 (鉄道)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Sleeping car 」があります。 スポンサード リンク
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