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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
グレート・アントニオ(The Great Antonio、本名:Antonio Barichievich、1925年10月10日 - 2003年9月7日)は、カナダのプロレスラー。クロアチア・ザグレブ出身。 == 来歴 == 1945年、クロアチア併合後のユーゴスラビアからカナダ・ノバスコシア州ハリファックスに移住〔。怪力自慢のストロングマンとしてスポーツ・エンターテイメントのキャリアを開始し、1952年には433トンの列車を19.8メートル引っ張ったとしてギネス世界記録に載ったという〔。 サーカスやカーニバルのアトラクションへの出演を本業としつつプロレスのリングにも上がり、1959年はテキサスのダラス地区を皮切りに、カナダやアメリカの各テリトリーを転戦〔『Gスピリッツ Vol.30』P59-61(2014年、辰巳出版、ISBN 4777812669)〕。カルガリーではモーリスとポールのバション兄弟を相手にハンディキャップ・マッチを行い、トロントではジン・キニスキーやハードボイルド・ハガティ、ミネアポリスではバーン・ガニアと対戦。ミネアポリス地区(後のAWA)のカナダでの拠点だったウィニペグでは、10月2日にヘイスタック・カルホーンとの超巨漢対決も実現している〔。 翌1960年は5月から9月にかけてニューヨーク地区(後のWWWF)に出場し、ブルーノ・サンマルチノ、アントニオ・ロッカ、リッキー・スター、ベアキャット・ライトらと対戦。ヒールのポジションでパンピロ・フィルポやドクター・ジェリー・グラハム、ワルドー・フォン・エリックともタッグを組んだ〔。 1961年5月、グレート東郷のブッキングで初来日し、日本プロレスの『第3回ワールド大リーグ戦』に参戦。6月2日には蔵前国技館にて力道山のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦した。来日時は、神宮外苑で満員の大型バス3台(三菱ふそう車)を引っ張るというデモンストレーションを行い話題を集めた〔〔週刊ゴング増刊号『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P37(2002年、日本スポーツ出版社)〕。しかし、試合自体は実力が伴わず、力道山とのタイトルマッチも2-0のストレート負け〔週刊ゴング増刊号『世界名レスラー100人伝説!!』P42(2003年、日本スポーツ出版社、総合監修:竹内宏介)〕。また、観客動員への貢献を鼻にかけ、ボーナスの支払いや契約の延長を要求するなど増長した態度を見せたため、同シリーズに来日していたミスターXやカール・クラウザーに制裁を加えられ、契約満了をもってシリーズ途中で帰国している(契約最終日となった6月9日の高松大会では、リング上でもミスターXから制裁を受けたという)〔〔。 帰国後はオクラホマ地区を経て、10月にテキサスのアマリロ地区に登場。10月12日には当時ドリー・ファンク・シニアが保持していたアマリロ版のNWA北米ヘビー級王座に挑戦している。その後、同月26日のミスター・クリーン戦を最後に北米での試合記録は残っておらず、サーカス業界に戻ったとされる〔(カナダでは、1971年にカルガリーのスタンピード・レスリングに出場していたともされる〔)。 1977年10月、新日本プロレスの『闘魂シリーズ第2弾』開幕戦に突如乱入。16年ぶりの再来日を果たし、最終戦の12月8日に蔵前国技館でアントニオ猪木と対戦するも惨敗した〔〔。この再来日時にもバスを引っ張るデモンストレーションを行ったが、北海道室蘭市で道南バスの観光バス1台(日産ディーゼル車)を引っ張ったにとどまった。 2003年9月7日、晩年の居住地だったモントリオールにて、心臓発作により死去〔。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「グレート・アントニオ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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