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ゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラー : ミニ英和和英辞書
ゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラー : ウィキペディア日本語版
ゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラー[ちょうおん]

ゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラーGeorg Joseph Vogler 1749年6月15日 - 1814年5月6日)は、ドイツの作曲家オルガニスト教師音楽理論家アベ・フォーグラーAbbé Vogler)としても知られる。
== 生涯 ==
フォーグラーはヴュルツブルクのに生まれた。父のヤレト・フォーグラー(Jared Vogler)はヴァイオリン製造業を営んでおり、彼をイエズス会の学校に通わせながらもその音楽の才能を伸ばそうとした。フォーグラーの音楽的才能は、10歳になる頃にはオルガンを弾きこなしただけでなく、ヴァイオリンやその他の楽器を巧みに扱ったことからも明らかであった。1771年にはマンハイムに赴き、バイエルン選帝侯カール・テオドールのためにバレエを作曲した。選帝侯は1774年にフォーグラーをボローニャに向かわせ、ジョヴァンニ・マルティーニの下で学ばせた。しかしマルティーニの方法論に満足できなかった彼は、パドヴァで5ヶ月間〔訳注:1697年生まれ、イタリアの作曲家、音楽理論家、オルガニスト。和声法対位法に関する理論書を出版している。〕に師事し、その後ローマへと移り司祭に任ぜられながらも有名なアカデミー・オブ・アルカディア〔訳注:1690年設立、ローマにあるイタリアの文学アカデミー。(Academy of Arcadia)〕に入会を許された。また騎士に叙され(OGS)、教皇の書記長、随行員となった。
1775年にマンハイムへ戻り、フォーグラーはカール・テオドールの宮廷教会の牧師に任ぜられ、副''maestro di cappella''となった。この頃彼は最初の音楽学校を開校しており、そこで教えた原理が他の教師とは異なるものだったため、学生たちは彼を支持したが同時に多くの敵を生んでしまった。彼はハープシコードのための新しい運指法、新しい型のオルガンの設計、ヴァロッティの理論を基にした新しい音楽理論を考案した。モーツァルトは彼の運指法を「悲劇的」だと非難しており、フォーグラーに関する偏見を吹聴して回ったため、当時はフォーグラーの信頼を傷つけるような様々な噂が飛び交っていた。オルガンの設計に関する変更点は機構の簡略化によるもので、リード-ストップの位置にフリー・リードを導入し、大「混成音」の変わりに同音のストップを用いる仕組みだった。これは非常に流行することになる。彼は論理システムについてヴァロッティの原理に基づくものと説明していたが、大部分は経験則によっていた。にもかかわらず、それらが彼の新理論に根ざすように思われる真実を土台としていたおかげで、フォーグラーが音楽理論の進展に大きな影響力を行使できたのは疑いのないことである。またそのために、彼の弟子からはその時代の天才たちが幾人か輩出することになる〔。
1778年にカール・テオドールが宮廷をミュンヘンに移すことになった。フォーグラーは1780年に後を追ったが、劇作品への評判が上がらなかったことに不満を抱き、すぐに職を辞してしまう。彼はパリへ赴いたが、そこではラモーが最初に唱えたのに端を発した彼のシステムへの強い敵意がいまだ渦巻いていた。彼の聖シュルピス(Sulpice)教会でのオルガン演奏会は大きな注目を集めた。王妃の依頼でオペラ「''Le Patriotism''」が作曲され、ヴェルサイユ宮殿の前で初演された。フォーグラーは各地に演奏旅行に出かけ、スペインギリシアアルメリアアジアアフリカの地方都市、そして保存されている民謡を求めてグリーンランドにまで足を伸ばした。1786年にはスウェーデングスタフ3世カペルマイスターに任用され、ストックホルムに彼の第2の音楽学校を設立する。また、彼自身が発明したオルガンの一種である『オーケストリオン』という楽器を演奏し、極めて大きな名声を博した。1790年には彼はこの楽器をロンドンへ持ち込み、パンセオン〔訳注:1772年開場、オックスフォード・ストリートの南の端にあった大衆娯楽施設。マークス&スペンサーの支店建設のために1938年に取り壊された。(Pantheon)〕で演奏して多大な効果を挙げた。また、その演奏開場では彼は独自の原理に基づいてオルガンを建設している。彼のペダル演奏は大きな注目を集めた。1788年サンクトペテルブルクを訪れた際には、当時そこにいたコペンハーゲンのオルガン製作者で、初めてフリー・リードをオルガンのパイプに採用したことで知られるキルスニック(Kirsnick)に会っている。フォーグラーは1790年から、自分が演奏した全てのオルガンにフリー・リードによる音栓を追加する改造を施していった。Rackwitz(1782年から1790年にキルスニックに雇われてサンクトペテルブルクにいた)によって最初に改造されたオルガンはロッテルダムのものだった。その後30台程のオルガンの仕様変更が行われた。フォーグラーの最も人気のあった作品は、ウェストミンスター寺院の祝祭にヘンデルを訪ねた後で作曲された「ハレルヤコーラス」の主題に基づくフーガである。クネヒト(Knecht)が「オルガンによる音楽絵画」と呼んだように、曲は嵐を模した描写を有している〔。
ロンドンを後にし、フォーグラーはロッテルダムをはじめとするライン川流域の主要都市を回った。では、国王のためにとっておかれていた「名誉のワイン」を贈呈された。フランクフルトでは神聖ローマ皇帝レオポルト2世戴冠式に出席した。彼が次に訪れたのはストックホルムで、長い間その地にとどまっていた。しかし抑えきれない放浪癖によりスウェーデンを後にし、もう一度ドイツで身を立て、ついに宗教音楽と劇音楽の両方の作曲で最大の栄誉を得ることができた。彼は1800年にはベルリン1804年にはウィーン1806年にはミュンヘンにいたという。1807年のフランクフルトではヘッセン大公国大公ルートヴィヒ1世に招かれ、カペルマイスターの職、枢密院の名を冠した勲章、3,000フロリンの給料、住居、大公自身の台所にあるテーブルの供与、その他の特権の提示を受けた。これを受諾することにしたフォーグラーは、放浪の生活に終止符を打った〔。
ダルムシュタットにおいて、フォーグラーは彼の第3の、そして最も有名な音楽学校を開校した。この学校は輝かしい卒業生ら、、ウェーバーマイアベーアを輩出し、彼らの老いた巨匠への愛着は限りないものであった。フォーグラーの最後の英断の1つには、ウェーバーの「」の上演を観るための1810年のフランクフルト旅行がある。彼は最後までよく働き、ダルムシュタットで突如脳卒中に倒れ帰らぬ人となった。フォーグラーは演奏家としては華麗で熟練、教師としては風変わりかもしれないが優れた人物であった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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