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ゲンナディオス・スホラリオス : ミニ英和和英辞書
ゲンナディオス・スホラリオス
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ゲンナディオス・スホラリオス ( リダイレクト:ゲンナディオス2世 (コンスタンディヌーポリ総主教) ) : ウィキペディア日本語版
ゲンナディオス2世 (コンスタンディヌーポリ総主教)[げんなでぃおす2せい]

ゲンナディオス2世スホラリオス(, 1400頃 - 1468頃?〔生没年につき - Catholic Encyclopedia (1913)/Gennadius II にはこの年号が付されている。ただし"The Blackwell Dictionary of Eastern Christianity"には生没年の記載が無く、コンスタンディヌーポリ総主教庁の公式サイトにも没年の記載は無い。結局のところ生没年ははっきりしていない。〕)は、コンスタンティノープルの陥落後の正教会コンスタンディヌーポリ総主教(コンスタンティノープル総主教)
コンスタンティノープルの支配者が東ローマ帝国からオスマン帝国に移行した時代における最初のコンスタンディヌーポリ総主教である〔Catholic Encyclopedia (1913)/Gennadius II 〕。また、優れた哲学者神学者でもあった。
俗名はゲオルギオス・スホラリオス()。姓である""は古典ギリシャ語再建音からはスコラリオスとも転写できる。修道名ゲンナディオスと俗名を組み合わせてゲンナディオス・ゲオルギオス・スコラリオスと表記される事もあるが〔〕、このように修道名と俗名を組み合わせた表記は他言語および正教会では一般的ではない。
== 生涯 ==

=== コンスタンティノープルの陥落まで ===
コンスタンディヌーポリ(コンスタンティノープル)に1400年頃〔生まれ、同地で教育を受ける。マルコス・エヴゲニコスに学ぶ。アリストテレス哲学の教養を備え、同時代人より西方教会の神学に明るかった〔"The Blackwell Dictionary of Eastern Christianity" Wiley-Blackwell; New edition (2001/12/5), p208 - p209, ISBN 9780631232032〕。
哲学を講じた後、東ローマ帝国皇帝ヨアニス8世パレオロゴスのもとで裁判官を務めた〔。
フィレンツェ公会議では当初、東方教会と西方教会との合同に賛成していたが、師マルコスの説得により自己の過ちを認めて意見を変え、師マルコスの死後、時のコンスタンディヌーポリ総主教ミトロファニス2世: 1440-1443グリゴリオス3世: 1443-1450)が合同賛成派であった際に、合同反対派のリーダーとなった。グリゴリオス3世によって職を追われた後、修道士となり修道名ゲンナディオスを受ける(グリゴリオス3世はその後、1451年ローマに亡命した)。東西教会合同反対派リーダーとしてのゲンナディオスの立場は、その後も変わらなかった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ゲンナディオス2世 (コンスタンディヌーポリ総主教)」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Gennadius Scholarius 」があります。




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