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コビャーク : ミニ英和和英辞書
コビャーク[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

コビャーク : ウィキペディア日本語版
コビャーク[ちょうおん]
コビャークロシア語:Кобяк: ? - 1184年?)は、1170年から1180年代にかけてルーシ諸公の支配地を攻撃したポロヴェツ族ハンである。コンチャークらと共にルーシ諸公の内紛に干渉した。
1171年、コビャークとコンチャークのポロヴェツ軍は、ヴォールスクラ川(ru)の戦いにおいて、セヴェルスキードルジーナ隊を率いたイーゴリ公の軍に敗れた。
1180年にはスヴャトスラフ3世がキエフを占拠するのを援助したが、1183年もしくは1184年には、そのスヴャトスラフ3世、リューリク2世らの連合軍(彼ら以外にも11人の公が参軍していた。)の捕虜となった。このオレーリ川の戦い(ru)では、コビャークの2人の息子と、10人のハンも捕らえられた。
これ以降のコビャークの動向については年代記に記されていない。しかし、S.A.プレトニョーヴァは、『イーゴリ軍記』の記述〔日本語訳本では「スヴャトスラーフの います館の 広間にどうと くずおれた」と表現されている。(木村彰一訳『イーゴリ遠征物語』60ページより引用。)〕を元に、捕われのコビャークはスヴャトスラフの屋敷で処刑されたと結論付けている。
コビャークの息子のダニラは、後に父同様にポロヴェツの統帥者となった。1203年1月2日、彼の率いるポロヴェツ軍は、チェルニゴフのオレーグ一門の軍と共にキエフを落とした。
==脚注==


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「コビャーク」の詳細全文を読む




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