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コブラ作戦 : ミニ英和和英辞書
コブラ作戦[こぶら]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

コブラ : [こぶら]
 【名詞】 1. cobra 2. (n) cobra
: [さく]
  1. (n,n-suf) a work 2. a harvest 
作戦 : [さくせん]
 【名詞】 1. military or naval operations 2. tactics 3. strategy 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 

コブラ作戦 : ウィキペディア日本語版
コブラ作戦[こぶら]

コブラ作戦(コブラさくせん、Operation Cobra)は、第二次世界大戦ノルマンディ上陸作戦における、D-デイの上陸から7週間後にアメリカ第1軍により行われた攻勢である。アメリカ軍のオマール・ブラッドレー中将の狙いは、ドイツ軍がカーン近辺でのイギリス軍・カナダ軍の攻勢()に気を取られていることを利用して〔Trew, p. 64〕、ドイツ軍の態勢が整わないうちに、迅速に自軍正面の戦線を突破しようとするものであった。一旦突破口が開けば、ドイツ軍の側面を捲り、障害となっていたノルマンディの地帯から抜け出し、第1軍がブルターニュへ進撃できる可能性があった。作戦はスロースタートであったが勢いを増し、敗残部隊がセーヌ川に向けて脱出を目指すと、ドイツ軍の抵抗は崩れた。戦況に対して兵力不足からドイツ軍の対応は追いつかなくなり、まもなくノルマンディ戦線全体が崩壊することとなった。コブラ作戦と、同時に行われたおよびの攻勢は、ノルマンディ作戦における連合軍の勝利を決定づけた。
コブラ作戦は、悪天候による数度の延期の後、7月25日、数千機の連合軍機による絨毯爆撃により開始された。支援攻撃がドイツ軍装甲部隊の予備をイギリス軍・カナダ軍戦区へ引きつけると、ドイツ軍は兵力が全体的に不足し、切れ目のない防衛線の形成が不可能となった。アメリカ第7軍団は、第1軍の他部隊がドイツ軍を釘付けにする支援攻撃を行う間に、麾下の2個師団で攻勢をかけた。初日の進撃は遅々としていたが、一旦防衛線が破れるとドイツ軍は崩壊を始めた。7月27日までに大半の組織的な抵抗を排除し、第7およびが高速で進撃、コタンタン半島を孤立させた。
7月31日までにが第1軍前面の敵を全て排除し、ブラッドレーの部隊はようやくボカージュ地帯から抜け出た。ギュンター・フォン・クルーゲ元帥は西へ増援を送り、幾度も反撃した。その最大の反撃(リュティヒ作戦)は、8月7日、とアヴランシュの間で行われた。この戦いは激戦であったが、既に疲弊し戦力が低下した部隊によるものであり、クルーゲの軍がさらに消耗するばかりで、大勢に影響を与えなかった。8月8日には、新たに行動を開始したアメリカ第3軍が、かつてドイツ第7軍の司令部があったル・マンを占領した。コブラ作戦はノルマンディの激しい消耗戦から機動戦への転換点となり、ファレーズ・ポケットの形成、そしてフランス北西部におけるドイツ軍の敗北に繋がった。
== 背景 ==

1944年6月6日に行われた連合軍ノルマンディ上陸の成功に続く内陸への進撃は順調ではなかった。フランスへの戦力増強を促進し、進撃の足場とするため、アメリカ軍戦区の西にあるシェルブール港とイギリス・カナダ軍戦区にある古都・カーンが、序盤の目標であった〔Van der Vat, p. 110〕。ノルマンディ上陸作戦の当初計画では、中将のがカーンとその南方を占領し、オマール・ブラッドレー中将のアメリカ第1軍ロワール川へ「席巻する」予定であった〔Bradley, p. 261〕〔Williams, p. 24〕。
ノルマンディにおける連合軍地上部隊の総指揮官であるバーナード・モントゴメリー将軍は、D-デイ当日にカーンを、15日後にシェルブールを占領する方針であった〔Williams, p. 38〕。第2軍はカーン占領後、へ向けて南東へ戦線を拡大するとともに飛行場を確保して、シェルブールへ向かうアメリカ第1軍の左側面を守備する予定であった〔Ellis, p. 78〕。カーンと、機動戦に適した平地だった、その周辺部を確保すれば、第2軍が南方へ進撃し、ファレーズを占領後、そこから右転回して、アルジャンタンおよびへ向かうことが可能となる〔Greiss, p.308〕〔Ellis, p. 81〕。歴史家のL・F・エリスは、カーンの占領は、中将のにとってD-デイにおける最重要目標であったと記している。エリスとは、カーンがノルマンディで最も強固に防御されていたことから、連合軍の計画は「野心的(ambitious)」であったと評した〔Keegan, p. 135〕。

D-デイ当日にカーンに到達しようとした第1軍団の最初の試みは、とカーン防衛のために送られたドイツ軍の増援部隊により防がれ、イギリス・カナダ軍の戦線は第2軍の目標地点手前で急速に膠着状態となった〔Bercuson, p. 215〕。D-デイ翌週のと6月26-30日のにより支配地を拡大しドイツ軍を消耗させたが、カーンは、7月7-9日ので第2軍が正面突撃によりオルヌ川に到る街の北半分を占領するまで、ドイツ軍が確保し続けた〔Keegan, p. 135〕〔Williams, p. 131〕。
イギリス・カナダ軍によるカーンへの絶え間ない攻撃は、大半の装甲部隊を含むノルマンディのドイツ軍の精鋭部隊を、連合軍海岸堡の東端に釘付けにした。それでもアメリカ第1軍は粘り強いドイツ軍の抵抗の前に進撃が遅れていた〔。作戦遅延の要因には、アメリカ軍が訓練していなかった、生垣のある土手、窪道、小さな林からなるの障害もあった〔Greiss, p. 317〕。そして連合軍は港湾を確保していなかったため、増援と補給を全て2つので揚げなければならならず、天候の影響を受けた〔Greiss, pp. 308–310〕。7月19日にイギリス海峡を襲った大嵐は3日間続き、連合軍の揚陸を大幅に遅らせ、いくつかの作戦が中止となった〔Williams, p. 114〕。西部戦区でのアメリカ第1軍の進撃は、シェルブールの占領に集中するため〔Greiss, p. 312〕、サン=ローの手前でブラッドレーが停止させた〔Williams, p. 163〕。シェルブールの守備は、コタンタン半島を撤退してきた部隊の残兵で組織された4つの戦闘団からなったが、港の防御は基本的に海からの攻撃に備えたものであった〔Hastings, p. 163〕。ドイツ軍の組織的な抵抗は6月27日、アメリカがシェルブールの北西にあるアーグ岬の守備隊をなんとか制圧したとき、終了した〔Hastings, p. 165〕。その後4日経たないうちに、ジョーゼフ・ロートン・コリンズ少将率いる第7軍団が、およびとともに、サン=ローへの攻撃を再開し、ドイツ軍にアメリカ軍戦区へ追加の装甲部隊投入を強いた〔Greiss, p. 316〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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