|
コミンテルン(、カミンテールン、ラテン文字転写例:'、)は、1919年から1943年まで存在した、共産主義政党による国際組織である。別名第三インターナショナル。、)は、1919年から1943年まで存在した、共産主義政党による国際組織である。別名第三インターナショナル。 == 概要 == 「コミンテルン」とは正式名称の「共産主義インターナショナル」(、コムニスチーチェスキイ・インテルナツィオナール、)の略称。 1919年3月に結成され、1935年までに7回の大会を開催した。第七回大会には65ヶ国の党と国際組織の代表が出席した〔『コミンテルン資料集 第6巻』村田陽一編訳、大月書店、1983年、548ページ〕。前身の組織として第一インターナショナル、第二インターナショナルが存在する。 第二インターナショナルは、第一次世界大戦の際、加盟する社会民主主義政党が「城内平和」を掲げそれぞれ自国の戦争を支持したために瓦解した。これに反対する諸派がスイスのツィンメルヴァルトで開いた国際会議がコミンテルンの源流である。十月革命後の1919年3月、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)の呼びかけに応じてモスクワに19の組織またはグループの代表が集まり、創立を決めた。 当初は世界革命の実現を目指す組織とされ、ソ連政府は資本主義諸国の政府と外交関係を結ぶがコミンテルンは各国の革命運動を支援する、という使い分けがなされた。しかしウラジーミル・レーニン死後にスターリンが一国社会主義論を打ち出したことで役割が変わり、各国の共産党がソ連の外交政策を擁護するのが中心になっていった。1920年代中頃の中国では、ブルジョア政党の政権が共産党を弾圧しても黙認する、といった例も生じた。 その一方、第二インターナショナルの系譜に属する社会民主主義政党には厳しい姿勢をとりつづけ、1928年夏のコミンテルン第6回大会ではファシズムと社会民主主義のつながりを強調する「社会ファシズム論」が登場した。1930年代前半よりドイツで台頭するナチスに対し、ドイツ共産党が社会ファシズム論に基づいてドイツ社会民主党 (SPDの略称で知られる中道左派・リベラル政党) との対立にあけくれたことは、ナチスの権力獲得を許す一因となった。 1935年のコミンテルン第7回大会では反ファシズムを最優先課題として多様な勢力と協調しようとする人民戦線戦術を採択した。スペインやフランスで人民戦線政府が誕生したが、スペインではフランコによる反乱からの内戦で壊滅した。独ソ不可侵条約の成立と第二次世界大戦初期のポーランド分割の結果、人民戦線戦術は放棄された。 独ソ戦の勃発に伴い、ソ連がイギリスとともに連合国を形成したことによって名実ともに存在意義を失い、1943年5月に解散した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コミンテルン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|