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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ 州 : [す, しゅう] (n) sandbank
コルデスターン州(ペルシア語: استان کردستان Ostān-e Kordestān)はイランの州(オスターン)。地域としてのクルディスターンとの混同に注意。面積は28,817km²。イラン西部に位置する。西にイラク、北に西アーザルバーイジャーン州、北西にザンジャーン州、南にケルマーンシャー州と境を接する。クルディスタン州ともいい、その名の通り州民にはクルド人が多い。 州都はサナンダジュ。主要都市にマリーヴァーン、バーネ、サゲズ、ゴルヴェ、ビージャール、サルダシュトがある。 == 歴史 == アーリア人はイランへの流入後、この地域にも住み着いた。紀元前612年のアッシリアの敗北につながる動きの中心部の一つともなり、メディア揺籃の地ともなった。 634年のアラブ人イスラーム勢力によるサーサーン朝への攻撃に際しては、イランの北部の諸地方同様に抵抗のあった地域であるが、結局はその支配下にはいることになる。835年にはクルド在地勢力の一部がアッバース朝のカリフ、ムウタスィムに叛乱を起こして鎮圧され、その後も叛乱を繰り返すがいずれも失敗した。 以降数百年間、クルディスターンはモンゴル帝国やティムール朝をはじめとする外部勢力間紛争の舞台となった。イルハン朝のオルジェイトゥの治世に、ソルターナーバード・チャムチャールという小さな街がビーストゥーン地域に建設され、約150年間クルディスターンの中心地として機能した。1372年。中心地はサナンダジュの南約6kmのハサナーバード城塞に移された。このころには交易路の海上へのシフトが決定的となり、地域の衰退は明らかになることになる。 サファヴィー朝のシャー・イスマーイール1世以降、クルディスターン全体がオスマン朝との争奪戦の舞台となり、在地有力者らは多数派スンナ派として信仰を同じくするオスマン朝に庇護を求めたり、強大なサファヴィー朝についたり、紆余曲折を経ることになる。1630年、ソレイマーン・ハーン・アルダーラーンが権力を握るとサナンダジュを中心として勢力を振るい、地域の開発をおこなった。アフシャール朝の没落後、まがりなりにもイランを支配したザンド朝のキャリーム・ハーン・ザンドはクルド人に近いとされるラク族の出身である。ザンド朝後期には西アーザルバーイジャーン地方にもコルデスターン勢力が及んだ。 近現代には民族主義が広まり、第二次世界大戦後の1946年、カズィー・ムハンメドがソヴィエト連邦の助力によるクルディスターン人民共和国を打ち立てた。しかしソヴィエト・イラン友好条約の結果、緩衝地帯としての価値を失い、ソヴィエト連邦に見放されて短期間で崩壊した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コルデスターン州」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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