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コンスタンツェ・フォン・アラゴン : ミニ英和和英辞書 | コンスタンツェ・フォン・アラゴン
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コンスタンツェ・フォン・アラゴン ( リダイレクト:コンスタンサ・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ ) : ウィキペディア日本語版 | コンスタンサ・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ
コンスタンサ・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ(Constanza de Aragón y Castilla, 1179年 - 1222年6月23日)は、アラゴン王アルフォンソ2世と王妃サンチャ(カスティーリャ王アルフォンソ7世の娘)の長女。ハンガリー語名コンスタンツィア(Aragóniai Constancia)、ドイツ語名コンスタンツェ・フォン・アラゴン(Konstanze von Aragon)、イタリア語名コスタンツァ・ダラゴナ(Costanza d'Aragona)。 1198年にハンガリー王イムレ1世と結婚した。2人の間には1男ラースロー3世が生まれた。イムレは1204年に死去し、ラースローが幼くして王位を継承したが、翌1205年にイムレの弟アンドラーシュ2世によって廃位された。コンスタンサとラースローはオーストリア公レオポルト6世の許へ逃れたが、間もなくラースローは死去し、コンスタンサはアラゴンへ帰国した。 のち、1209年にシチリア王フェデリーコ1世と再婚し、その最初の妃となった。フェデリーコは1215年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世となった。フェデリーコとの間には1男ハインリヒが生まれた。ハインリヒはコンスタンサの生前にドイツ王位に就けられていたが、コンスタンサの死後の1235年に反乱を起こして廃嫡され、1242年にアプーリアに護送される途中で、山中の崖に投身自殺を遂げた。 コンスタンサが2人の夫それぞれとの間にもうけた息子たちは、いずれも嫡男として生まれて父王の後継者とされながら、終わりを全うすることができなかったことになる。
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