翻訳と辞書
Words near each other
・ コントロールフリーク
・ コントロールライン
・ コントロール・データ・コーポレーション
・ コントロール・ライン
・ コントロール構文
・ コントロール理論
・ コントロール血清、対照血清
・ コント・カチョ〜ン
・ コント・コマーシャル
・ コント・ラッキー7
コント・レオナルド
・ コントール
・ コント山口君
・ コント山口君と竹田君
・ コント漫才
・ コント竹田君
・ コント赤信号
・ コント食堂
・ コンドアの岩絵遺跡群
・ コンドア・ロック‐アート遺跡群


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

コント・レオナルド : ウィキペディア日本語版
コント・レオナルド
コント・レオナルドは、レオナルド熊が率いた日本コントコンビ。1979年に結成され、1985年に解散。
== 来歴・概要 ==
1979年、当時熊田にげろう名義で活動していた熊は、元弟子のゆーとぴあ・ホープの紹介で、石倉三郎と『ラッキーパンチ』を結成し(形式上ポール牧門下。メンバー名はラッキー熊・パンチ三郎)、初めて世に出たものの、病み上りで体調不良の熊のドタキャン癖に石倉が愛想を尽かし、1年足らずで解散。石倉は芸能界に見切りを付け、マザー牧場で働いていた。
解散直後、弟子である後のブッチー武者と『熊田うつぞう・にげろう』(熊は熊田うつぞう、ブッチーは熊田にげろう)を組み、間もなく『コント・レオナルド』(初代。レオナルド熊・ダヴィンチ白熊)に改称したが、勝手に名前を変えたことでポールから破門される。
しかし熊の常軌を逸した苛めで武者がノイローゼになった上、『花王名人劇場』出演直前にコント中の舞台で転倒、骨折し休演せざるを得なくなったため、ホープと澤田隆治が取り成して石倉を呼び戻し、1981年に『コント・レオナルド』(レオナルド熊・石倉三郎)を二代目として再結成させた。
鋭い社会風刺でお笑いブームの一角を占めたが、コンビ仲は引き続き最悪で、金に汚い熊が石倉に無断でワリを多く取ったり、後のすず風にゃん子ら別の弟子と『コント・レオナルド』名義で内職営業したりした事で決裂、熊も石倉の酒癖を揶揄し、人気絶頂だったにも関わらず1985年にコンビ再解消した。
熊はその後、劇団で俳優として活躍する一方、副業も行っていた。石倉は俳優として現在も活躍している。
石倉は熊と絶交し、1994年に病死した熊の葬式まで、顔を合わせることはなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「コント・レオナルド」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.