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サッポー(古代ギリシア語アッティカ方言: / 、紀元前7世紀末 – 紀元前6世紀初)は、古代ギリシアの女性詩人である。 出身地レスボス島で用いられたアイオリス方言ではプサッポー( / )と呼ばれる。名は「サッフォー」()とも表記される。 == 生涯 == サッポーは生前から詩人として著名であり、シケリア島のシュラクサイに亡命の時期に彫像が立てられたという。またプラトンはサッポーの詩を高く評価し、彼女を「十番目のムーサ」とも呼んでいる。ムーサとはアポロンに仕える9柱の芸術の女神である。 歴史学(パピルス)上ではっきりしているのは、サッポーはレスボス島で生まれ、紀元前596年にシケリア島に亡命し、その後、レスボス島に戻ったということのみである。 サッポーに関する文献は少なく、その生涯ははっきりしない。紀元前630年から紀元前612年の間のいずれかの年に生まれ、紀元前570年頃に亡くなったと考えられている。 「サッポーは、富裕な商人である"Kerkylas of Andros"(アンドロス島のケルキューラース)と結婚した」という伝承があった。しかし、ケルキューラースという名前は(現存する)サッポーの詩に全く登場しない上、19世紀半ばに歴史学者のが、"Kerkylas of Andros" は "Penis of Man" を意味する古代ギリシア語とよく似た音になることを発見し指摘したため、この伝承は歴史的事実でなく、サッポーが同性愛と結びつけられることを踏まえた上での創作による民間伝説であると考えられている。 サッポーは、彼女によって選ばれた若い娘しか入れないある種の学校をレスボス島に作った。また、様々な女性に対する愛の詩を多く残した。そのため、サッポーと同性愛を結びつける指摘は紀元前7世紀ごろから存在した。サッポーの学校では、文芸・音楽・舞踊を始めとする教育が行われたといわれるが、具体的な内容についてはよくわかっていない。サッポーの詩のうちの一部は、それら生徒のために書かれたものである。 同じレスボス島出身の詩人アルカイオスとは詩の交換などで交遊があった。サッポー自身はアルカイオスと異なり、詩作において政治と関わることはせず、主観の方向は内的情熱に傾倒し、亡命の際以外、政治への関与は避けた。〔注 - サッポーの最後については、遡ればメナンドロス(紀元前342-292)あたりから、渡し守に恋をしてルーカディアの崖から飛び降りたのだろう、などと語られてきたが、これは現代の学者からは、歴史的な事実ではないと見なされており、おそらく喜劇詩人がつくりだしたお話か、あるいはサッポーの非自伝的な詩を彼女自身の話として誤読してしまったことが原因で作り出されたお話だろうと推測されている(Joel Lidov, "Sappho, Herodotus and the Hetaira", in Classical Philology, July 2002, pp.203–237. pp.205-206)。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サッポー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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