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サミュエル・カニオン・ドウ(Samuel Kanyon Doe、1951年5月6日 - 1990年9月9日)はリベリアの軍人、政治家。同国大統領を務めた。民族主義を基盤とした独裁と政治的反対者への苛烈な抑圧をその政治運営の特徴とした。姓はドゥ、ドエ、ドーとも表記する。 == 経歴 == === 出生から政権獲得まで === リベリア内陸部グランドゲデ郡のトゥゾンという小さな村落に農家の息子として生まれる。少年期に初等教育を受けられたものの、成績を収められず1969年には高校を中退し陸軍に入隊する。1979年10月には下士官に昇進し、アメリカ陸軍から派遣されたグリーンベレー出身者による訓練も受けた。彼の出身部族である(Krahn)〔『平成3年版(第35号)外交青書 わが外交の近況』1991年12月、外務省、P182。〕はリベリア国土に古くから定住していた部族の一つであったが、当時のリベリアは19世紀にアメリカから渡航しリベリア国家を樹立した解放奴隷の子孫、通称アメリコ・ライベリアンが支配しており、先住民系のリベリア国民は多数派であるにもかかわらず長い間政治的な抑圧を受けていた。ドウが軍曹に昇進した時には、後に彼の命を奪うことになるプリンス・ジョンソンが上官だった。 1980年4月12日、上級軍曹に昇進していたドウは他のリベリア部族出身の兵士トーマス・クィウォンパ、トーマス・ウェー=シェン、ハリソン・ダン、ネルソン・トーら同志と共に軍事クーデターを敢行、アメリコ・ライベリアン出身のウィリアム・R・トルバート大統領を殺害し、ホイッグ党と同党の主な支持基盤だったアメリコ・ライベリアンによる支配を終わらせた。ドウが起こしたクーデターにより、トルバート大統領と26人の支持者が戦闘で死亡、さらに10日後には首都モンロビアの海岸で大統領の弟フランク・トルバートら高官13人を公開処刑した。なお、当時のコートジボワールのフェリックス・ウフェボワニ大統領と、ブルキナファソのブレーズ・コンパオレ大統領はトルバート大統領と親戚関係にあったため、ドウ政権下のリベリアと両国との関係は著しく悪化することになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サミュエル・ドウ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Samuel Doe 」があります。 スポンサード リンク
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