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サンジャースレンギーン・ゾリグ(、ラテン文字転写の例:、1962年4月20日 - 1998年10月2日)は、モンゴル国の学者・政治家。モンゴル国立大学大学院生だった1989年末、東欧革命に呼応して始まった民主化運動に参加、リーダーとして頭角を現し〔「現代モンゴル 迷走するグローバリゼーション」p37-38 モリス・ロッサビ著 小長谷有紀監訳 小林志歩訳 明石書店 2007年7月31日初版第1刷〕、若くして有力な政治家となったが、1998年に暗殺された。 == 経歴・人物 == === 生い立ち === 1962年4月20日に父サンジャースレン、母ドルジパラムの三人兄妹の第二子として生まれる〔Kohn, 39-40〕。長兄は日本の国立民族学博物館外国人研究員(客員)教授などを務めたサンジャースレンギーン・バヤラー(1959年生まれ)。後にゾリグの遺志を継ぎ、国民大会議代議員、外相となったサンジャースレンギーン・オユーンは妹である。父サンジャースレーンは医科大学の教授でブリヤート系である〔Rossabi, 3 ゾリクの英語版記事の脚注より。オユーンの英語版記事によれば、モンゴル国立大学哲学部長、モンゴル教育省次官を歴任していると記述されている。〕。母ドルジパラムは、父と結婚する前は、モンゴルでも知られた映画女優であった〔 では、ドルジパラムが医師で、医学生時代にモンゴル映画「目覚め」(1957年公開)に出演しているとされる。〕。母の父(ゾリグの祖父)アンドレイ・ドミトリエヴィチ・シムコフは、地理学者で、ロシアの地理学者、探検家であり、西夏のカラホト遺跡の発見者として知られるピョートル・コズロフの探検隊に加わりロシアからモンゴルに来たといわれている。この祖父は、モンゴル人民共和国の独裁者ホルローギーン・チョイバルサンが行った大粛清の犠牲になり、ドルジパラムは孤児となった〔Kohn, 39〕。 1970年ゾリグはウランバートルの第23中等学校に入学する。この学校はウランバートル市内に設けられたロシア語学校のひとつであった。1980年から1985年までソ連に留学し、モスクワ大学で哲学を学ぶ〔〔Zorig Foundation, S. Zorig biography 〕。帰国後、1年間、モンゴル革命青年連盟で講師として勤務する〔。1986年モンゴル国立大学の講師となり、科学的共産主義を教える〔Kohn, 40〕。 ゾリグは洗練されたチェスの選手でもあり、後にモンゴルチェス連盟会長になった 〔。1988年民主化を掲げ、反体制派の青年を糾合し「新世代」グループを設立した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サンジャースレンギーン・ゾリク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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