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サンタクルス島()は、アメリカ合衆国カリフォルニア州沖にあるチャンネル諸島の島である。東西方向の長さ22マイル (35 km)、南北方向の幅2ないし6マイル (3.2 - 9.7 km)、広さは 61,764.6 エーカー (249.952 km2) あり、チャンネル諸島8島の中で最大である。本土のサンタバーバラ郡に属し、その沖合にある諸島北部の連なりの中に位置している。海岸線には険しい崖、巨大な海蝕洞、入り江、砂浜が並ぶ。国の機関であるアメリカ合衆国国立公園局が土地の24%を所有し、民間の自然管理委員会がのこり76%を所有している。アメリカ合衆国国勢調査局はこの島をサンタバーバラ郡国勢統計区29.10、ブロックグループ3、ブロック3000に指定しているが、2000年国勢調査での人口は2人だった〔United States Census Bureau, 2005〕。島内最高地点は2,450フィート (747 m) 以上あるデビルズピークである。 島の中央、東西方向にサンタクルス島断層に沿って谷があり、その北側は火山岩、南側は古い堆積岩がある。 アイランドアメリカカケスやアイランドキツネなど、地球上の他では見られない生物種が生息している。 == 歴史 == === 古代 === 考古学調査に拠れば、サンタクルス島には少なくとも9000年前から人が住んでいた。チュマシュ語で「リムー」(海の場所)あるいは「ミチュマシュ」と呼ばれた。島に住んだチュマシュ族インディアンは、海洋から得られる産物、特化された工作物、本土の人々との交易に頼る、高度に複雑な社会を作り上げた。サンタクルス島チュマシュ族は通貨として使った貝のビーズを作っており、それが経済の重要な部分を占めた。16世紀から17世紀初期まで、ヨーロッパ人との接触も無かった。カリフォルニア海岸を初めて探検したとされているフアン・ロドリゲス・カブリリョが、少なくとも6つの集落を見つけたが、岸には上がらなかった。カブリリョはこの島を「サンルーカス」と名付けた。 1602年、セバスティアン・ビスカイノが、スペインとしては最後のカリフォルニア遠征隊を率いた。その作成した地図には「アイラ・デ・ゲンテ・バーブダ」(顎髭を生やした人の島)と記されていた。1602年から1769年の間にヨーロッパ人が接触した記録は無い。1769年には、ドン・ガスパル・デ・ポルトラの海陸遠征隊がサンタクルス島に立ち寄った。この隊にはフアン・ゴンザレス・ビスケイノとフランシスコ・パロウ両神父が同行していた。パロウ神父は、ビスケイノ神父がサンタクルス島のザザスの村を訪れたことについて、宣教師達が岸に上がると「その未開人に温かく迎えられ、魚を送られた。その見返りにインディアンにはビーズの連なり数本が渡された」と記している。この島は人口の多いチュマシュ族に奉仕するカトリック伝道所を設立する場所として検討された。1782年、海峡の向かい側本土にサンブエナベンチュラ伝道所が設立されると、サンタクルス島チュマシュ族の間でも緩り改宗が始まった。1822年チュマシュ族の最後の者が島を離れて本土に移った〔。 1821年にメキシコがスペインから独立すると、メキシコ政府はカリフォルニアに対する支配を主張した。メキシコ人の存在を増すために、多くの地域に受刑者を送り込み始めた。サンタバーバラにも40人ほどとの受刑者が送られ、そのままサンタクルス島に送られた。彼等は現在プリズナーズハーバーと呼ばれる場所に短期間住んでいた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サンタクルス島」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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