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サンタ・マリア・イン・コスメディン聖堂( or ''de Schola Graeca'')は、イタリアのローマにある聖堂であり、バシリカである。リパのリオネに位置する。 最初、古代ローマの廃墟を利用し、東方の聖像破壊運動(イコノクラスム)の迫害から逃れてきたギリシャ人にあたえられた。コスメディンは、化粧を指すコスメと同じく、ギリシャ語で「装飾」を意味する。 == 歴史 == この教会は6世紀頃食料市場であった場所に建てられ、8世紀に教皇ハドリアヌス1世によって増築された。ビザンティン建築が多く残る一帯だったため、7世紀この聖堂は「de Schola Graeca」と呼ばれ、現在でも近くに「della Greca」と呼ばれる道路がある。782年頃、教皇ハドリアヌス1世によって増築された時、この聖堂は聖像破壊運動(イコノクラスティ)の迫害から逃れたギリシャ人修道士たちに授けられた。身廊と2つの廊下と柱廊式玄関(Portico)が建てられた。聖具室と祈祷(きとう)堂は9世紀、ニコラウス1世によって増築された。彼は教皇の住居も建てていたが、1085年ロベルト・イル・グイスカルド率いるノルマン人の軍隊によって破壊された。ゲラシウス2世、ケレスティヌス3世、ベネディクトゥス8世が教皇に選出された場所でもある。1118年から1124年にかけて、カリストゥス2世のもと、改修作業が行われた。その後ベネディンクティンによって占領されてから10年が経ち、1718年、ジュゼッペ・サルディ(Giuseppe Sardi)によって聖堂の正面ファサードはバロック様式に改装された。しかし、このバロック様式の増築は、1894年-1899年の改修作業によってクレメンス11世の盾形の紋章と共に壊されてしまう。イギリス史上最後のカトリックのカンタベリー大司教であるレジナルド・ポールが、かつてこの聖堂で枢機卿の助祭(司祭の補佐)を歴任していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サンタ・マリア・イン・コスメディン教会」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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