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サンチン : ウィキペディア日本語版
サンチン
サンチンは、空手の一つ。那覇手の基本型として知られ、首里手泊手ナイファンチと同じく、那覇手ではもっとも重要な型の一つである。
漢字では主に三戦と表記されるが、三進、参戦などの表記を使う流派もある。
== 概要 ==

=== 起源 ===
サンチンの起源について述べた最古の文献は、本部朝基の『沖縄拳法唐手術組手編』で、それによれば、サンチンは「古来より琉球に行はれたる」型の一つで、「支那でよく用ひられ、現在なお現存せる」型の一つとされる。
また、中国武術の南派の白鶴拳には、サンチンと類似の開掌の套路が存在する。例えば、鳴鶴拳の三戦、八歩連、永春白鶴拳の三戦などである。それゆえ、沖縄のサンチンは中国から伝来したと一般に考えられているが、いつからそれが沖縄に存在したかについては、現在諸説がある。
従来は、サンチンは東恩納寛量が渡して学んできたとされていたが、東恩納寛量より先輩(一説には師匠〔東京大学空手部六十年史記念号編集委員会編『東京大学空手部六十年史』収録の寄稿文、藤原稜三「近代空手道の先駆者 三木二三郎と『拳法概説』」(178頁)を参照。〕 )である湖城大禎(1837年 - 1917年)とサンチンのあり方を巡って激論、いわゆる「サンチン裁判」を繰り広げたというやや矛盾した逸話も伝えられている。湖城大禎は独自に福州にわたりサンチンを学んできたとされており〔上地完英監修『精説沖縄空手道』上地流空手道協会、1977年、793頁参照。〕〔東恩納盛男『剛柔流空手道史』CHAMP、2001年、15頁参照。〕、この逸話が正しければ東恩納と同時期、あるいはそれ以前に湖城大禎はサンチンを学んできたことになる。また、後述するように劉衛流では、開祖・仲井間憲里が、東恩納寛量が生まれる以前の道光年間(1821年 - 1850年)にすでにルールーコウからサンチンを学んできたとしており、この説を信じるならばサンチンの沖縄への伝来はさらに数十年遡ることになる。
湖城大禎はサンチンなどを修行していたとは伝わっていない、湖城流では形はナイファンチを現在も重要視しています。サンチン裁判も湖城大禎が激論した事実もない。この逸話が正しくない噂話に過ぎないのである。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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