翻訳と辞書
Words near each other
・ サン・チピレッロ
・ サン・チプリアーノ
・ サン・チプリアーノ・ダヴェルサ
・ サン・チプリアーノ・ピチェンティーノ
・ サン・チプリアーノ・ポー
・ サン・チャレンジ
・ サン・ティレール
・ サン・テオドーロ
・ サン・テオドーロ (オルビア=テンピオ県)
・ サン・テオドーロ (メッシーナ県)
サン・テグジュペリ
・ サン・テチエンヌ
・ サン・テティエンヌ
・ サン・テティエンヌ・オ・タンプル
・ サン・テティエンヌ・オ・モン
・ サン・テティエンヌ・デュ・ルヴレ
・ サン・テティエンヌ・ド・ブローニュ
・ サン・テティエンヌ・ル・ロウ
・ サン・テミリオン
・ サン・テミリオン地域


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

サン・テグジュペリ ( リダイレクト:アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ ) : ウィキペディア日本語版
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ

アントワーヌ・マリー・ジャン=バティスト・ロジェ・ド・サン=テグジュペリ(Antoine Marie Jean-Baptiste Roger, comte de Saint-Exupéry、1900年6月29日 - 1944年7月31日)は、フランス作家操縦士郵便輸送のためのパイロットとして、欧州-南米間の飛行航路開拓などにも携わった。読者からは「サンテックス」の愛称で親しまれる。

== 略歴 ==
リヨン伯爵の子として生まれる。イエズス会ノートルダム・ド・サント・クロワ学院を経て、スイスフリブールにある聖ヨハネ学院では文学にいそしむ。
兵役(志願)で陸軍飛行連隊に所属し、異例の経歴で軍用機操縦士(士官)となる。退役後(士官であったため、陸軍予備役少尉となる)は自動車販売員などに就業した後、民間航空界に入る。
1926年、26歳で作家として本格的にデビューし、寡作ながら以後、自分の飛行士としての体験に基づいた作品を発表。著作は世界中で読まれ、有名パイロットの仲間入りをしたが、仲間のパイロットの間では反感も強かったという。後に敵となるドイツ空軍にも信奉者はおり、サン=テグジュペリが所属する部隊とは戦いたくないと語った兵士もいたという。
1939年9月4日、第二次世界大戦で召集され、トゥールーズで飛行教官を務めた。前線への転属を希望したサン=テグジュペリは、伝手を頼り、周囲の反対を押し切る形で転属を実現させる。戦闘隊や爆撃隊は希望せず、1939年11月9日、オルコントに駐屯する偵察隊(II/33 部隊)に配属された。部隊は多大の損害を受けアルジェリアへ後退したが、ヴィシー政権がドイツと講和。動員解除でフランス本土へ戻った後、アメリカへ亡命。1940年12月21日リスボン出航。12月31日ニューヨーク着。
大戦中、亡命先のニューヨークから、自ら志願して再度の実戦勤務で北アフリカ戦線へ赴き、1943年6月に原隊である II/33 部隊(偵察飛行隊)に着任する。新鋭機に対する訓練期間を経て実戦配置されたが、その直後に着陸失敗による機体破損事故を起こし、1943年8月に飛行禁止処分(事実上の除隊処分)を受けてしまう。必死の尽力により復帰を果たすと、爆撃機副操縦士としての着任命令(I/22部隊)を無視する形で、1944年5月、サルデーニャ島アルゲーロ基地に進出していたII/33部隊に戻った。部隊は後にコルシカ島に進出。1944年7月31日、フランス内陸部グルノーブル、シャンベリー、アヌシーを写真偵察のため、ロッキード F-5B(P-38の偵察型)を駆ってボルゴ飛行場から単機で出撃後、地中海上空で行方不明となる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.