|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 歴史 : [れきし] 【名詞】 1. history
ザンジバルの歴史(ザンジバルのれきし)では、ザンジバルの歴史について述べる。11世紀から13世紀にかけて形成されたイスラーム系スワヒリ文明の周縁部であったザンジバルは、16世紀のポルトガルの征服と17世紀末のオマーンによる征服を経て、19世紀前半のオマーンのサイイド・サイード王による王宮ストーン・タウンの建設以後、19世紀インド洋西部の覇権をイギリスと争ったオマーン帝国の中心として栄えた。象牙、クローヴ、奴隷などの貿易によって繁栄したザンジバルのイスラーム商人は、1870年代より奴隷を求めて東アフリカ内陸部のタンガニーカ湖にまで進出し、同地域のスワヒリ語化の契機を形成するなどアフリカ大陸にも強い影響力を保ったが、19世紀末のヨーロッパ列強によるアフリカ分割の文脈の中で1890年にザンジバル王国はイギリスの保護国となり、1896年のイギリス=ザンジバル戦争の敗北によってイギリスによる直接統治が決定付けられた。20世紀に入るとアラブ系住民の主導で民族解放運動が進み、1963年12月10日にブーサイード家の国王を戴くザンジバル王国として独立を遂げたが、独立直後の翌1964年1月12日に勃発したザンジバル革命によって君主制は廃止され、ザンジバル人民共和国が成立した後、大陸部のタンガニーカと合併して同1964年4月にタンザニア連合共和国が成立した。以後、ザンジバルは大陸部のタンガニーカから強い自治権を確保したザンジバル革命政府によって統治されている。 == 初期スワヒリ文明 == ザンジバル、及びスワヒリ文明の前史たる東アフリカ沿岸部とインド洋交易の関係については、紀元1世紀から2世紀にかけてギリシャ人によって著された『エリュトゥラー海案内記』にその嚆矢が見られる〔富永(2008:10-14)〕。同書には東アフリカ沿岸部は「アザニアー」と呼び表され、アザニアーに存在した港町ラプタは、当時「ヒッパロスの風」と呼ばれた季節風(モンスーン)を用いてアラビア半島のムーザの町と象牙、犀角などの交易を行っていたとの記録が存在する〔。 8世紀から10世紀にかけてペルシア湾のシーラーフやバスラ、オマーンのスハールなどの港市を拠点にしたペルシア人やアラブ人のイスラーム商人が、ダウ船を用いた中国の唐朝と西アジアのアッバース朝を結ぶ「海の道」の交易を盛んにするに連れ、次第に東アフリカ沿岸部にもイスラーム商人の移住が進んだ〔富永(2008:14)〕。8世紀後半にはパテ島(現在のケニア)にイスラーム教のモスクが造営されていたことが遺跡調査から明らかになっており、キジムカジに現存するザンジバル最古のディンバニ・モスク〔シラジ・モスクとも呼ばれる。〕は1107年に造営されたと伝えられている〔富永(2008:21)〕。東アフリカに伝えられたイスラームは既にムスリムであったペルシア人、アラブ人のみの宗旨とはならず、イスラーム商人の来航以前から居住していたバントゥー系の人々も、イスラームの洗練された文明の魅力や、イスラーム商人から奴隷にされることへの恐怖、インド洋交易への参入の利などの理由を背景に徐々にイスラームへの改宗を進めた〔。このようにして東アフリカ沿岸部へと移住したペルシア人、アラブ人のムスリムとイスラーム化したバントゥー系の人々は、11世紀から13世紀にかけて徐々に沿岸部の諸都市内部でスワヒリ語やイスラーム文化を紐帯に一体化し、スワヒリ化した人々による諸都市にはキルワ王国のような階層化された諸王国が成立した〔富永(2008:24-32)〕。当時のスワヒリ諸都市について、14世紀にはモロッコ出身のイブン・バットゥータがモガディシュ(現在のソマリアの首都)を訪れた紀行を『旅行記』に残し、15世紀には明朝の鄭和が率いた大艦隊の一部がマリンディ(現在のケニア)を訪れた記録が残っている〔富永(2008:28-30)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ザンジバルの歴史」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|