|
シド・フェルナンデス(Charles Sidney Fernandez , 1962年10月12日 - )はアメリカ・メジャーリーグで活躍した投手。左投左打。 アメリカ合衆国ハワイ州ホノルル出身。 == 人物・来歴 == カイザー高校(ホノルル)を卒業し、ドラフト会議でロサンゼルス・ドジャースから3巡目(全米73位)で指名され入団。 この年6月からルーキー級・1Aでプレイし、9イニング平均奪三振は14以上を数えた。翌は3Aアルバカーキで過ごしたが、は2Aサンアントニオに降格。 この年2Aで大活躍し、終盤にメジャーに昇格。9月20日にメジャー初登板を果たす。しかしその年のオフに2選手との交換でニューヨーク・メッツに移籍。 はメッツの3Aタイドウォーターで開幕し、この年はメジャーでは6勝6敗に終わるが、翌に9勝。しかも170回1/3投げて180奪三振で、被安打はわずか108であった。9イニング平均の被安打5.71は、ナ・リーグ史上2位(1位は1907年に記録)。左の横手投げで、ストレートの球速は時速85マイル(136キロ)程度とメジャーでは遅い部類に入るが、独特のモーションと効果的なカーブで奪三振も多かった。ドワイト・グッデンが投げている試合では、グッデンが三振を奪うたびに「K」のボードが掲げられたが、フェルナンデスが三振を奪うと「S」(「Sid」の「S」)のボードが掲げられた。 には自己最多の16勝(6敗)をあげ、特に前半戦は12勝2敗の成績で、オールスターに出場。ハワイ出身の先輩投手チャーリー・ハフ(当時レンジャーズ)と投げ合った。ただし、本拠地シェイ・スタジアムでは防御率2.17も、敵地では5.03と内弁慶ぶりを露呈した。 この年メッツはボストン・レッドソックスとのワールドシリーズ出場を果たすが、ワールドシリーズではリリーフでの起用に限定され、左投手に不利なフェンウェイ・パークでの第3 - 第5戦では登板の機会がなかった。第6戦、第7戦ではいずれもリードを許した状態で登板して好投し、チームの逆転勝ちに貢献した。 も前半戦好調で、2年連続のオールスター出場を果たす。この年も本拠地で9勝3敗防御率2.98、敵地で3勝5敗防御率5.05と内弁慶ぶりは変わらなかった。 は逆にシーズン序盤に不調も12勝。にも14勝をあげた。 は9勝14敗に終わる。この年も本拠地では8勝5敗防御率2.41だが敵地で1勝9敗防御率4.94という散々な成績に終わった。はスプリング・トレーニング中の腕の故障で、7月中旬まで欠場し、さらに9月には膝の故障で1勝に終わる。 には14勝をあげて復活するが、チームは地区5位に終わる。は再び故障のため5勝に終わる。チームも地区最下位に沈み、この年限りでフリーエージェントでボルチモア・オリオールズに移籍する。 しかしその後もかつての活躍はできず、途中にはフィラデルフィア・フィリーズに移籍。にヒューストン・アストロズで1試合に先発して勝利投手になったのを最後に現役を引退。9イニング平均の被安打(通算)は6.85で、終了時点でノーラン・ライアン、サンディー・コーファックス、ペドロ・マルティネスに次いで歴代4位である。 引退後は故郷のハワイに戻り、セミプロチームのコーチを務めていたが、にニューヨーク・ヤンキースのスプリング・トレーニングに参加して驚かせた。マイナー契約し、4月7日にマイナーで復帰後初登板したところ、膝を負傷。1週間後に引退を発表した。その後は再びハワイに戻り、コーチ業等を務めている。米国第50番目の州・ハワイの出身であることを誇り、メジャーのキャリア中背番号は「50」で通した(まで千葉ロッテマリーンズでプレイしたベニーも同様である)。また、メッツ時代の本拠シェイ・スタジアムでは、フェルナンデスが先発登板する試合前にはハワイアンソングが流れた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シド・フェルナンデス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|