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シモーニデース : ミニ英和和英辞書
シモーニデース[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

シモーニデース : ウィキペディア日本語版
シモーニデース[ちょうおん]

ケオスのシモーニデース(, , , 紀元前556年頃 - 紀元前468年)は、古代ギリシア抒情詩人である。長母音を省略してシモニデスとも表記される。ケオス島(現ケア島)のIoulisの生まれ。ヘレニズムアレクサンドリアの学者たちは、シモーニデースをサッポーピンダロスらと一緒に9歌唱詩人の1人に数えた。甥のバッキュリデースも詩人である。
==生涯==
若い頃のシモーニデースは音楽を教え、アポローンの祭のためのパイアンを作っていた。しかし、故郷では自分の才能を活かせないと気付き、文学パトロンだったヒッパルコス(:en:Hipparchus (son of Pisistratus)ペイシストラトスの子)の宮廷のあるアテナイに移り住んだ。紀元前514年にヒッパルコスが暗殺されると、シモーニデースはテッサリアに身を退き、その土地の名士であったスコパス(スコパース)家ならびにアレウアス家(:en:Aleuadae)の保護と援助を受け、悠々と暮らした。
キケロはその著書『弁論家について』(ii. 86)の中で、シモーニデースとスコパス家との関係の終わりについて、こんなことを書いている。シモーニデースのパトロンだったスコパスが戦車競走で勝利した。その祝宴で、シモーニデースは勝利を祝うオード(頌歌)を歌ったのだが、カストルとポリュデウケスの讃美に多くを割かれていたので、スコパスは立腹した。報酬を支払う段になって、スコパスは一部しか払わず、残りは双子の神(カストルとポリュデウケス)に請求しろと言った。そのすぐ後、二人の若い男がシモーニデースに会いに来たと聞かされて、シモーニデースが宴会の部屋を出たら、天井が崩落して、スコパスと客たちを押しつぶした〔 Bartleby.com 〕。瓦礫を掘り返している間、シモーニデースは死んだ客たちの身元を調べるよう頼まれた。シモーニデースは、部屋を出る前に人々がテーブルのどこにいたか、その座(loci)の記憶から、身元を特定することができた。カストルとポリュデウケスが残金の代わりに自分の命を救ってくれたのだとシモーニデースは感謝して、後に、この経験を「記憶劇場」(memory theatre)または「記憶宮殿」(memory palace)に展開させた(「座の方法」(:en:Method of loci)参照)。この情報処理の方法は、ルネサンス期まで広く社会に口伝された〔:en:Francis A. Yates. 'The Art of Memory', University of Chicago Press, 1966, p. 2〕。シモーニデースはこうした古代の記憶術の方法を発明したと信じられている〔クインティリアヌス『弁論家の教育』11.2,n〕。
マラトンの戦い紀元前490年)の後、シモーニデースはアテナイに戻ったが、すぐにシケリアに行った。シラクサ王ヒエロン1世(:en:Hiero I of Syracuse)に招かれたからで、シモーニデースは残りの人生をその宮廷で過ごすことになる。
学者としてのシモーニデースの評判は、次のような伝説からもわかる。母音 (ε, η, ο, ω)の長短の区別を導入したのはシモーニデースで、以後それは、イオニアのアルファベットに取り入れられ、エウクレイデスがアテナイのアルコンだった時代(紀元前403年)に一般的に使われるようになった、というのである。
シモーニデースの人気はそれだけにとどまらず、政治の世界においても影響力を持っていた。たとえば、両軍が激突する前夜、ヒエロン王とTheroを仲裁させたのはシモーニデースだったと言われている。シモーニデースはアテナイのテミストクレススパルタのパウサニアス両将軍とは個人的な友人で、ペルシア戦争について歌ったシモーニデースの詩がナショナリズム愛国心に強い衝撃を与えたのは疑いない。
詩に関しては、シモーニデースは自分の詩に対してほとんどどんな値段でも要求できた。後世のアリストパネス以降の著作家たちは、シモーニデースは強欲だったと主張しているが、おそらく根拠が無いわけではないと思われる。ヒエロン王の妃がシモーニデースに金持ちに生まれるのと天才に生まれるのとどちらが良いか尋ねたところ、シモーニデースはこう答えた。「金持ちです。なぜなら、天才はいつでも金持ちの戸口におりますから」〔アリストテレス『弁論術』16.1391a〕。別の人が、讃美の詩を書いてほしいが、感謝なら山ほどするものの、金は出せない、と言った。シモーニデースは答えた。自分は2つの箱を持っています。1つは感謝を、もう1つは金を入れるための箱を。そしてその箱は、前者はからっぽで役に立たず、後者は中身が詰まっていますと〔Simonides Of Ceos - Classic Encyclopedia 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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