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シャダイソフィアは、日本の競走馬。1983年の第43回桜花賞など中央競馬の重賞競走で3勝を挙げたが、1985年スワンステークスの競走中に故障を発生し、予後不良と診断されて安楽死となった。主戦騎手は猿橋重利。 ※馬齢は2000年以前に使用された旧表記(数え年)で統一する。 ==出生 - デビューまで== 母ルーラースミストレスは、アメリカで8度のリーディングサイアーを獲得した種牡馬ボールドルーラーの直子という良血、29戦6勝というまずまずの競走実績があったが、6万ドルという破格ともいえる安価で社台ファーム早来に輸入された。肛門と膣がつながっているという奇形があり、受胎しにくいという難点があったためである。しかし社台ファームは受胎、出産までこぎつけることに成功、シャダイソフィアはその3頭目の産駒であった〔『サラブレッド101頭の死に方』pp.374-375〕。社台グループ総帥の吉田善哉は本馬を非常に気に入っており、常々「この馬は100万ドルの価値がある」と吹聴していた〔『サラブレッド101頭の死に方』p.376〕。 競走年齢の3歳を迎えた1982年5月、滋賀県栗東トレーニングセンターの渡辺栄厩舎に入った。吉田自慢の馬を、他の上位厩舎を差し置いて当時中堅の渡辺が管理した経緯には複数の話が伝えられており、「渡辺がたまたま社台ファームに立ち寄ったところ、吉田から突然『お前、やれ』と言われた」という説〔渡辺 (2004) p.158〕と、「吉田からの預託予定馬をキャンセルされた渡辺が代替馬を要求したところ、吉田にシャダイソフィアを勧められた」という説〔木村 (1997) p.84〕が、いずれも渡辺本人への取材記にある。 渡辺は初めて見たときに「なんて品の良い馬だ。身体はこまい(小さい)けれどもトモ(後躯)も胸の深さも素晴らしい。胴も詰まってない〔」と感心したといい、また担当厩務員となる中村幸治は「ひと目で美しくて、気品のある馬だと思いました。ぼくも当時まだキャリアが浅く、どこがどうのという細部についての見方はできなかったのですが、第一印象はすごく良かった。それは実感で分かりました」と語っている〔渡辺 (2004) p.160〕。一方で主戦騎手となる猿橋重利は、外見は美しいと感じたものの非力な印象を受け、調教後に「大した馬じゃないですね」と渡辺に言ったところ、「どこを見てるんだ」と厳しく叱られたという〔渡辺 (2004) pp.160-161〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シャダイソフィア」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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