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シャンパーニュ伯ティボー4世 : ミニ英和和英辞書
シャンパーニュ伯ティボー4世[よ, せい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [はく]
 【名詞】 1. count 2. earl 3. eldest brother 4. uncle 5. chief official 
: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 

シャンパーニュ伯ティボー4世 ( リダイレクト:テオバルド1世 (ナバラ王) ) : ウィキペディア日本語版
テオバルド1世 (ナバラ王)[ておばるど1せい]

テオバルド1世(, , 1201年5月30日1253年7月8日)は、フランスシャンパーニュ伯ティボー4世、在位1201年1253年)、後にナバラ王(在位1234年1253年)。詩人王、遺腹王と呼ばれる。
シャンパーニュ伯ティボー3世とナバラ王女ブランシュ(ブランカ、サンチョ6世の娘)の子として生まれる。生まれる前に父が他界したため、誕生とともに伯位を継承し、遺腹伯と呼ばれたが、21歳になるまでは母ブランシュが国を統治した。
当初は、エルサレム王となった伯父アンリ2世(1166年 – 1197年)の遺児たち、娘フィリパとその夫ラメール公エラール1世との家督争いに悩まされた。この抗争は1215年からティボーが成人する1222年まで続き、エラール夫妻の多額の借金を肩代わりすることにし、争いはようやく治まった。1234年にはフィリパの姉であるキプロス王妃アリスの負債も肩代わりした。また、伯父や父の十字軍遠征によりシャンパーニュ伯家はすでに莫大な借金を抱えており、この点でも苦労することになった。
さらにフランス王ルイ8世と対立し、アルビジョア十字軍の際にアヴィニョンから勝手に陣払いをしたことで対立が明確になった。直後にルイ8世が急死したため、ティボーが毒殺したと噂された。そのためルイ9世の戴冠式への出席は許されなかった。ルイ9世の即位後、母后ブランシュ・ド・カスティーユ摂政に就くと、ティボーは王家と対立するのをやめ、ユーグ・ド・リュジニャンやピエール・モークレールとも和解して協力関係を築いた。
ティボーは王太后ブランシュと恋に落ちていたと言われ、残した詩の多くはブランシュに宛てたものだと言われる。ティボーは宮廷での政治的影響力を強くしていったが、他の貴族から反感を買い、1229年から戦闘が始まった。この時は王太后の援助によって危機を切り抜けたが、翌1230年にルイ9世と対立して攻撃を受けた際には、ブロワサンセールシャトーダンの統治権を王に売却することで和解しなければならなかった。
1234年サンチョ7世の死去によりナバラ王家が断絶した際、母ブランシュがサンチョ7世の妹だったことから、テオバルド1世としてナバラ王位を継承した。この相続によって財政的には非常に豊かになり、以後は大過なく平和な晩年を過ごした。
1238年にはティボーは聖地エルサレムへの遠征軍を率いた。これに先立ち、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は聖地へ赴き戦いでなく交渉でエルサレムを獲得したが(第6回十字軍・破門十字軍)、対立するローマ教皇グレゴリウス9世はこれを敵との妥協であると考え、武力によるイスラム教徒打倒を構想して「公式な」十字軍を送ろうとした。しかし頓挫し、ティボーほかフランスの諸侯による小規模な出陣となったものである。
しかし、1239年夏にパレスチナに上陸した彼らがほとんど戦うことはなかった。すでにエルサレムその他の領土はキリスト教徒側にある上、休戦が続いており、ティボーらはアッコンの宮廷で詩をよんで過ごし、アスカロンで築城をした。彼らはカイロとダマスカスに分かれて戦うアイユーブ朝宮廷の双方から援軍としての同盟を持ちかけられ、交渉によりヨルダン川地中海の間にエルサレム王国の領土を拡大し、ハッティンの戦い以前に匹敵するほどにした。これは領土的な成果としては第1回十字軍に匹敵するものであったが、現地の政治情勢に乗じた結果であり、ティボーの遠征前の意図とは異なった。1240年末、イングランドからコーンウォール伯リチャードが到来する前に、エルサレムの主導権争いを嫌いパレスチナを去った。グレゴリウス9世の意を受けて遠征したコーンウォール伯も戦うことはなく、アイユーブ朝からの領土受領とアスカロン築城をしただけで帰って行った。
ティボー4世は3度結婚した。最初の結婚は1220年、ゲルトルード・ダグスブール(ダグスブール伯アルベール2世娘、ロレーヌ公ティボー1世寡婦)とであるが、2年後の1222年、ティボーが成人すると離婚した。翌1223年にアニェス・ド・ボージューと2度目の結婚をし、娘ブランシュをもうけた。1231年にアニェスと死別すると、翌1232年にマルグリット・ド・ブルボン=ダンピエールと3度目の結婚をした。ティボーの後を継いだ長男のティボー5世(テオバルド2世)、次男のアンリ3世(エンリケ1世)は、いずれもマルグリットとの子である。
ティボー4世はトルバドゥールとしても知られ、才能ある詩人であった。ティボー4世の詩は現在でも約60篇ほど残っており、中にはメロディーが伝えられているものもある。詩は恋愛に関するものが多く、騎士と田舎娘の恋物語や、宮廷での恋愛模様を描いたものもある。




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「テオバルド1世 (ナバラ王)」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Theobald I of Navarre 」があります。




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