|
ジェス・オルテガ(Jesse Ortega、本名:Jesus Melendez Ortega、1922年〔 - 1977年7月28日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。カリフォルニア州出身。出自はメキシコ系移民とされるが、プエルトリコ系という説もある〔『THE WRESTLER BEST 1000』P280(1996年、日本スポーツ出版社)〕。 == 来歴 == 1940年に18歳で海軍に入り、ガダルカナル戦線に従軍〔。除隊後の1945年にプロレス入りし、地元のNWAカリフォルニア地区で活動〔。 中南米移民の多いカリフォルニア地区ではベビーフェイスとして活躍し、1954年10月6日にエンリケ・トーレスと組んでシャープ兄弟からNWA太平洋岸タッグ王座を奪取。同年11月9日にはサンフランシスコにてルー・テーズのNWA世界ヘビー級王者に挑戦した。 日本には1955年7月、日本プロレスに初来日。バッド・カーティスとの「中南米タッグ王者チーム」として参戦し、力道山&東富士の保持していたハワイ・タッグ王座とのダブルタイトル戦を2度行い、いずれも引き分けている〔。以降も度々来日し、1959年5月にはワールド大リーグ戦の第1回大会に出場。力道山と決勝を争うも敗退、準優勝となった。1963年の来日時には、2月9日に東京都体育館で力道山のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦している〔。 1966年にはブル・オルテガ(Bull Ortega)のリングネームでWWWFに進出。11月9日にボルチモア、12月1日にワシントンDC〔、翌1967年1月30日にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて、ブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦した。WWWFではヒールとしてビル・ミラーやゴリラ・モンスーンともタッグを組んでいる。 翌1968年4月には日本プロレスへの5回目の来日を果たし、キラー・コワルスキーやフレッド・ブラッシー、ターザン・タイラーらと共に第10回ワールドリーグ戦に出場。外国人陣営ではコワルスキーに次ぐ2位の戦績を残し、当時ジャイアント馬場が保持していたインターナショナル・ヘビー級王座にも挑戦〔。パット・パターソンをパートナーに吉村道明&大木金太郎のアジアタッグ王座にも挑んだが、いずれも戴冠には至らなかった〔。これが最後の来日となったが、馬場とは1972年2月19日、アメリカのミシガン州デトロイトで再び対戦している〔 1970年代はマイティ・ウルスス(Mighty Ursus)のリングネームでカナダを主戦場に活動。1973年4月29日にはトロントにてタイガー・ジェット・シンと対戦した〔。晩年の居住地となったカルガリーのスタンピード・レスリングでは、1975年7月18日にカーティス・イヤウケアの北米ヘビー級王座に挑戦している。なお、マイティ・ウルススの名義ではWWWF入りする前の1966年1月6日、オレゴン州セイラムにてスタン・スタージャックと組み、シャグ・トーマス&ベアキャット・ライトを破ってNWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を獲得している。 引退後は、オルテガ・サン(Ortega-San)と名乗り、日本人ギミックの初代グレート・カブキ(レイ・ウルバノ)のマネージャーを担当していたこともあった〔。 1977年7月28日、カルガリーの自宅にて心臓発作のため死去〔〔。55歳没〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジェス・オルテガ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|