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ジェノヴァの海戦 : ミニ英和和英辞書
ジェノヴァの海戦[じぇのう゛ぁのかいせん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

海戦 : [かいせん]
 【名詞】 1. naval battle 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 

ジェノヴァの海戦 : ウィキペディア日本語版
ジェノヴァの海戦[じぇのう゛ぁのかいせん]

ジェノヴァの海戦()は、1795年3月14日にイタリア北西部の港町、ジェノヴァの沖合で少将指揮下のフランス艦と、中将指揮下のイギリスナポリ王国の連合艦隊によって行われた海戦である。この海戦でイギリスとナポリ王国の連合軍はフランス相手に勝利を収め、イギリスはフランス艦サ・イーラとを拿捕した。
== 前哨戦 ==

=== ベリックの拿捕 ===

1795年初頭、イギリスの地中海艦隊の総司令官であるホサム中将は、艦隊をコルシカ島のサン・フィオレンツォ湾からリヴォルノに移動させた。このことはすぐに、フランス海軍トゥーロン基地に伝わった。フランスは15隻の戦列艦、6隻のフリゲート、そしてブリッグコルベット1隻ずつから成る艦隊を準備して、1795年3月2日に出港した〔Troude, p.424〕 。この艦隊の指揮官はピエール・マルタン少将だったが、出港の目的ははっきりしなかった。輸送艦隊には、イギリスからコルシカ島を取り戻すための、5000人の侵略部隊が乗艦していたが、この輸送艦隊はトゥーロンを出港しなかった〔Troude, p.425〕。フランス革命期の公安委員会国民公会へ提出した報告書には、この艦隊は、敵から地中海の海運線の安全を確保するためのものだったと明記されている〔。
フランス艦隊は、一連の北東の強風により前進を阻まれたものの、3月7日早朝にはコルシカ島が見える位置まで来た。その時フランス艦隊の前方の艦は、イギリスの軍艦が、応急に仮設したマストをつけて走っているのを見た。この艦は74門のベリックで、1795年初頭に、ロワーマストが艤装からはずれ、端の方に転がって海に落ちたため、イギリス艦隊の他の艦と共にサン・フィオレンツォ湾で修理を受けていた。軍法会議で、マストを折らないための予防策が事前に施されていなかったことがわかり、艦長のウィリアム・スミス、一等海尉、そして航海長がベリックを首にされた〔。その後ホサムが艦隊を率い、「ベリック」の新艦長にアダム・リトルジョンを任命して、マストを仮設し、艦隊と共にリヴォルノへ航行させたのである〔。リトルジョンは間もなく、近づいてくる艦隊が、スペインの旗を掲げていたにもかかわらずフランスのものであると気づき、逃走することを決めた。マストが仮設であったため、「ベリック」の速度は著しく落ちた。このためフランスのフリゲートはベリックに近づいて、午前11時にが風下に回り、マスケット銃の射程内にある、風下に位置した敵艦の艦首を銃撃した。その後フランス艦とが、「ベリック」の射程内へと針路を変え、クォーターデッキへの戦闘態勢を整えた。正午には、「ベリック」の艤装は寸断され、帆はぼろぼろに裂けていた。戦闘中に4人の水兵が負傷し、リトルジョンはバーショットで頭部を切断された。この戦闘での唯一の戦死者はこのリトルジョンだった。指揮は海尉のネズビット・パーマーにゆだねられたが、パーマーは、「ベリック」が満身創痍でとても逃げられないこと、これ以上の抵抗も役に立たないことから他の士官との協議を決意し、その後「ベリック」の旗を下ろすように命じた。「アルセスト」の負傷者は、艦長と他の士官を入れて8人だった。降伏により、ベリックの士官と乗員は、何隻かのフランス艦に分乗した〔。
3月8日、フランス艦隊が沖に2日前に姿を見せたという知らせがホサムに届いた。同じ日、より詳しい情報がもたらされ、スループの「モセール」がホサムの投錨地に近寄ってきて、北西の方向にいた艦隊に向けて信号を掲げた。ホサムの報告によれば、信号は艦隊に南に向かうように指示を出していたという。ホサムはただちに艦の艫綱を解いて、3月9日の早朝に海に出てコルシカ島へ向かった。その時点では、「ベリック」がどのような運命をたどったのかをまだ知らなかったため、ホサムはブリッグのをサン・フィオレンツォに派遣し、「ベリック」にカップ・コルス沖で自分たちと合流すよう指示を出すことにした〔。タールトンはその夜報告を持ち帰り、ホサムに「ベリック」が拿捕されたこと、フランス艦隊の最新と思われる位置を伝えた。そのためホサムは針路を変更し、北西を目指した。翌3月10日の朝、イギリス艦隊の視野にフランス艦隊が入ってきた。そこでフランス艦隊は南西の風に逆らいながら、トゥーロンへ向かって北方にZ字状に間切りをして進んだ〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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