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ジェリー・ローラー : ミニ英和和英辞書
ジェリー・ローラー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジェリー・ローラー : ウィキペディア日本語版
ジェリー・ローラー[ちょうおん]

ジェリー・ローラーJerry O'Neil Lawler1949年11月29日 - )は、アメリカ合衆国プロレスラー、プロレス解説者。「キング」のニックネームで知られ、ジェリー "ザ・キング" ローラーJerry "The King" Lawler)とも呼ばれる(キングのトレードマークとして、王冠をリングコスチュームに使用。現役選手時代の日本での異名は「南部の帝王」)。テネシー州メンフィス出身。第35代AWA世界ヘビー級王者
現役選手時代は地元テネシーを中心にプロモーター兼任で活動する一方、AWAなどにも積極的に参戦、日本にも度々来日したことがある。全盛期である1970年代後半から1980年代にかけては近年のハードコア・スタイルにも通じる荒っぽいラフファイターとして活躍した。
引退後はWWEカラー・コメンテーターを担当。当初はヒールの立場だったが、2000年代前半よりベビーフェイスのポジションに回り、ストーリーに応じて試合にも出場した。息子はかつてWWEで "ブライアン・クリストファー"、"グランマスタ・セクセイ" の名で活躍したブライアン・ローラー。また、1980年代後半にWWFで活躍した元インターコンチネンタル王者ホンキー・トンク・マンを従兄弟に持つ。
== 来歴 ==
1960年代から地元のメンフィスにてラジオDJとして活動、そのタレント性をプロモーターのオーブリー・グリフィスに見込まれ、ラジオでプロレス興行の宣伝をする代わりに無料でトレーニングを受け、1970年にプロレスラーとしてデビュー。NWAトライステート地区を経て1973年よりテネシーに戻り、メンフィスを拠点とするNWAミッドアメリカ地区にてジム・ホワイトとのコンビで活動。サム・バスマネージャーヒールとして悪名を轟かせ、師匠のジャッキー・ファーゴジェリー・ジャレット(後のTNA創設者)らと南部タッグ王座を争った。
シングルでは1974年に南部ヘビー級王座を初奪取(以降1987年まで、通算52回に渡って同王座を獲得)。1975年2月3日にはメンフィスにてジャック・ブリスコNWA世界ヘビー級王座に挑戦。翌1976年8月22日にもテリー・ファンクの同王座に挑戦し、60分フルタイムのドローに持ち込んでいる〔。1977年6月にはフロリダから遠征してきたダスティ・ローデスとも喧嘩試合を展開した。
この間もヒールのトップとして、ボボ・ブラジルミスター・レスリングロッキー・ジョンソンボブ・アームストロングロン・フラーロバート・フラーポール・オーンドーフビル・ダンディーら人気選手の敵役となって観客のブーイングを煽っていたが、1977年9月、ダンディーとの髪切りマッチに勝利した後に引退を表明〔。しかし翌月、会場での音楽パフォーマンス中にジミー・バリアントに急襲されたことを機に、ベビーフェイスに転向しての復帰を果たした〔。また、同年よりメンフィスにて新団体のCWA(''Continental Wrestling Association'')をジェリー・ジャレットと共に主宰、プロモーター兼エースとして絶対的な人気を獲得する。
以降CWAがダラスWCCWを買収してUSWA(''United States Wrestling Association'')を形成する1980年代末まで、ドリー・ファンク・ジュニアテリー・ファンクニック・ボックウィンクルビル・ロビンソンスーパースター・ビリー・グラハムジプシー・ジョートール・タナカソニー・キングダッチ・マンテルデビッド・シュルツハルク・ホーガンロン・バスキラー・カール・クラップモンゴリアン・ストンパージョー・ルダックオックス・ベーカーオースチン・アイドルトミー・リッチケン・パテラバグジー・マグローアイアン・シークジェシー・ベンチュラスタン・ハンセンランディ・サベージカリーム・モハメッドブルーザー・ブロディリック・ルードリック・フレアーなど、幾多の強豪を迎え撃った。特に、NWAミッドアメリカ時代から因縁の続くテリー・ファンクとは、会場内に観客を入れないエンプティ・アリーナ・マッチを含め、数々の遺恨試合を残している〔。
1982年には当時の全米屈指の人気コメディアン・素人プロレスラーだった「世界無性別級王者」ことアンディ・カウフマンと抗争を繰り広げ、人気トークショーへの出演や試合(ローラーの秒殺)も行った〔。カウフマンの生涯を描いたジム・キャリー主演の映画マン・オン・ザ・ムーン』には、実況のジム・ロスと共に本人役で出演している。
CWAでは1981年に若手時代の渕正信(マサ・フチ)と大仁田厚(ミスター・オーニタ)を日本人ヒールとして迎え入れ活躍させたこともある(渕はローラーの必殺技フィスト・ドロップを継承し日本で使っていた)。また、1984年AWA地区でジャイアント馬場と邂逅しており、その際にキングコング・バンディ全日本プロレスへのブッキングを約束、しかし新日本プロレスのブッカーだった大剛鉄之助にバンディを一本釣りされてしまい、その代償としてジミー・バリアントとのタッグで1985年1月に全日本に短期参戦したこともある。このときがローラーの初来日で、何度となく来日の噂があったものの一度も実現することのなかった「幻の強豪」として注目を集めた。しかしながら、当時の全日本プロレスは長州力率いるジャパンプロレス勢の参戦で日本人同士のハイスパート・レスリングが主軸となっていたこともあり、目立った活躍は果たせなかった〔『ピュア・ダイナマイト - ダイナマイト・キッド自伝』P136-137(2001年、エンターブレイン、ISBN 4-7577-0639-1)〕。
1980年代半ばからはテネシー地区以外にも活動範囲を拡大、当時のWWF全米進出への対抗策としてAWAのバーン・ガニアやNWAのジム・クロケット・ジュニアらが立ち上げた "Pro Wrestling USA" の興行にも主力選手として参加するなど、一時期は反WWFの急先鋒だった。ハーリー・レイスがWWFで「ザ・キング」を名乗った際は、キャラクター権侵害として訴えを起こしたこともある。
1988年5月9日にはカリフォルニア州サンフランシスコカート・ヘニングを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得。同年10月17日、地元メンフィスで藤波辰巳を相手に防衛戦を行っている(試合は王者ローラーの勝利)〔『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P44(2002年、日本スポーツ出版社)〕。さらに当時WCCW王者であったケリー・フォン・エリックを破り王座を統一、初代のUSWA統一世界王者となった(以降、マスター・オブ・ペインザ・ソウルテイカー、ジミー・バリアント、テリー・ファンク、カマラココ・B・ウェアオーエン・ハートタタンカ、ランディ・サベージ、エディ・ギルバートシッド・ビシャスレイザー・ラモンジェフ・ジャレットらを破り、1997年まで同王座を通算27回獲得)。1989年3月には新日本プロレスに来日し、横浜文化体育館にて藤波のIWGPヘビー級王座に挑戦している〔。
1992年12月、USWAとWWFが団体間の業務提携を開始したことにより、WWFのリングに初登場。当初はヒールとしてのレスラー活動が中心で、ハクシーアイザック・ヤンカムらを配下にブレット・ハートとも抗争を展開〔。観客からは "バーガーキング" のチャントを浴びせられた。また、トークの才能を活かしてキングス・コートなるインタビューコーナーも担当、ベビーフェイス勢との舌戦を繰り広げた。
その後、カラー・コメンテーターボビー・ヒーナンWCWに移籍したこともあり、1990年代後半よりセミリタイアし、ジム・ロス(JR)の相方としてRAWの番組解説を担当。かつてのゴリラ・モンスーンとヒーナンのコンビ同様、真面目な実況者のJRとディーヴァ好きの砕けた解説者のローラーという対照的な2人の掛け合いが番組の目玉の一つとなる。当初はヒールの立場だったためJRとは不仲という設定だったが、アングル上JRを助けるための試合を行ったことで、徐々に良好な間柄として描かれるようになった。
2001年2月には当時の愛人だったザ・キャットことステイシー・カーターの解雇を巡り上層部と対立、WWFを離脱するが(後任解説者はポール・ヘイマン)、同年11月に電撃復帰。また、2005年2月4日・さいたまスーパーアリーナ大会『ROAD TO WRESTLEMANIA 21 JAPAN TOUR』では、アナウンサーチームとしてJRと共に久々の来日を果たした。
2007年WWE殿堂入りが実現。2009年もRAWの解説者として活動する一方、ビッグ・ショーキャメルクラッチを受けたりブライアン・ケンドリックに勝利したりなど、リング上でも体を張って活躍。2010年ザ・ミズとの抗争アングルが組まれ、WWE世界ヘビー級王座を懸けたTLC戦を展開。実況アナウンサーのマイケル・コールに王座獲得を阻止されるも、これを機に、再びリングに上がって現役選手と試合をする機会が増えた。マイケル・コールとの確執ストーリーは、2011年の『レッスルマニアXXVII』での直接対決にまで発展した(結果は勝利と見せかけ、RAWの匿名GM(ミスティックマン)の裁定で敗戦となった)。その後も時折リングに上がり、さまざまなヒール選手と対戦。WWEでの活動のほか、地元メンフィスのインディー団体 "Memphis Wrestling" のショーにも出場した。
2012年9月10日、RAWモントリオール大会でのケイン&ダニエル・ブライアン対プライム・タイム・プレイヤーズ(タイタス・オニール&ダレン・ヤング)戦の実況中に心臓発作を起こし、病院に搬送された。ICUで心疾患の集中治療を受け、その後の容態は安定。11月12日放送のRAWより放送席に復帰した。
2015年1月からは、スマックダウンの解説者となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジェリー・ローラー」の詳細全文を読む




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